たりたの日記
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2002年02月06日(水) |
映画「息子の部屋」を見る |
2001年度カンヌ映画祭パルムドール賞受賞作品のイタリア映画。監督及び主演は異端の名匠の異名を持つナンニ・モレッティ。息子を不慮の事故で失う精神分析医を演じている。 映画はほぼ前半、暖かく愛情の絆に強く結ばれた4人家族の日常を描いている。盗みの疑いをかけられ学校に呼ばれる「事件」はあっても徹底的に息子を信じる家族であり、夫婦して二人の子どもたちのレポートを助ける場面ばどは欠けのない完璧な家庭という印象を与える。 しかし死は突然にやってくる。息子の死をどうにも受け入れることのできない両親のうめき、何もかもが崩れていくような深いダメージがリアルに表現されている。父親はもう精神分析医としての仕事ができなくなり仕事をやめる。仲の良かった夫婦の関係もその悲しさ故に変質してしまう。カトリックの国イタリアにあってこの家族は宗教と無縁なインテリの家庭だが、娘は「弟のためにミサをしようと思うの」と提案する。葬儀のミサの中で祭司は人はそれぞれ生きる時間が定められている。人は早すぎる死にどうしてと問うが、その人の死は神が定めたものだ。また私たちはいつ泥棒が入ってくるかを知らないがもし知っていたなら何も取られることはないと語る。しかし、その父親にとってそれは意味のない言葉にすぎず、何の慰めにもならずむしろ怒りを触発する。映画には子どもの死を前にして嘆き悲しむ親たちをしかし近距離からではなく何か空の上から眺めているような視点があった。人が受けなければならない現実をしんとした眼差しで見つめる視線とでも言えばよいのだろうか。それは背景に流れているブライアン・イーノの”by this river"の歌詞のせいかもしれない。その歌の言葉が映画の中で唯一宗教的なニュアンスを持って、無神論的な人間の上を流れているかっこうになっていると感じた。そしてその歌は人が信じようが信じまいが死は終わりではなく魂の救いはあるというメッセージのように沁み込んで来た。きっとこの家族も慰めを受ける、そう思い私もまた涙を流した。悲しいけれども感謝に満ちていた。
この日の夕方、訃報が入る。長く病床にあった教会の長老の方が召されたのだ。身近に接している家族の内に死が訪れた。日常の流れが止まる。
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