たりたの日記
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昨日の教会会員総会を持って2年間の役員の任から解かれた。といっても私が担当していた英語学校と教会教育担当役員は役員という枠からはずれ、新たに設けられた様々な奉仕班へ移動した。つまり、これまでの仕事を他の教会員と同じ位置ですることができるようになったわけだ。正直ほっとしている。
PTAにしろ、何にしろ、組織の役員という立場は嫌いだ。しかし一旦その立場に立つと、私は「従来どおり」に従うことがどうしてもできない。まずいと思えるところ、変わるべきだと思うところが見えてきて、なとかしなければと思う。当然どの組織にも変化を求める人とそうでない人がいるわけで、その双方の間で「変えよう」とするリーダーたちは緊張を強いられる。変化を求める人もその変化に不安が生じれば、リーダーのせいにしたいし、変化を求めない人たちとしては今までの平和を「かきまわした」と攻めたくなる。教会といえども、国の政治を司る組織からPTAの組織まで同じようなことが起こるのだ。それはひとつには日本人が変化を求めない傾向が強いということがあるように思う。もう一つはお上と下々という図式に分けてしまって皆が同じ土俵で同じ責任を持ってかかわっていくという意識に乏しい。批判や傍観のところに留まり、共に担うというところになかなか立てないのだ。アメリカの教会で、多くの方が持ち場持ち場で様々な奉仕活動をされているのに驚いた。私も聖歌隊、教会学校の手伝い、ホームレスの人たちのシェルターのお世話、老人ホームへの慰問、クリスマスの時のクラフトパーティーでは折り紙でのオーナメントつくりの講習、婦人の集まりでの日本語の賛美歌の紹介、思い返せば4年間の間に数え切れないほどのボランティアや活動にかかわってきた。どれも楽しく、また自分が何かの役に立っていることに充実感を覚えていた。
この1年は新しい方が責任役員に立ち、役員は初めてという青年と去年役員になったばかりのしかも女性(この教会にはそれまで女性の役員がいなかった。)の私という構成だった。異例の役員会としてスタートしたのである。 わたしたちが意図したというわけではないが、教会全体に変化をもとめる空気のようなものが起こり、私たちはそれを受けて数回にわたり全体での話し合いの時を持った。思い切った決断や変化がなされ、昨日の総会もそれまでの事業内容の承認と決算、予算の報告で済まされてきたものではなく、教会の組織についても、奉仕ということについても賛成、反対の入り乱れ実にたくさんの意見が出てきた。感情のぶつかり合いだってあった。当然である。みなが真剣にかかわっていれば、そういうぶつかり合いだって避けられないだろう。
この1年、教会改革の中心になって労してくださった責任役員のTさんはご自身から希望して役員を降り、新しく組織した奉仕班での活動を申し出られた。みなTさんに続けてやっていただきたい気持ちはやまやまだったが、誰も何もいわず、Tさんの申し出を尊重したのはTさんがどれほどこの大変な思いをし教会の流れを変える舵取りをしたかが良く分かっているからだ。それ以上の緊張を強いるべきではないと感じたからだ。牧師は昨日の説教をこのように結ばれた。「今年役員は教会の流れを変えるのに大きな働きをしました。それは地上にではなく、天に宝を積む行為でした。しかし、その業は誰かがやったというのではなく、神様がなさったことなのです。このことをなさしめてくれた神に感謝します。」私はこの言葉に大きくうなずいていた。そのことを実感していた。確かに大変な思いはあったが、大きな促しに沿って歩いてきたような気がする。
私たち役員は最後の仕事として新しい教会活動の組織を提案した。役員にすべての仕事と責任が集中しないように英語学校担当、教会学校担当、教会教育担当、行事担当、環境整備担当、教会音楽担当、牧会支援担当、広報担当という奉仕班を作り、そこへ私はこれをやると自主的に担当者を募った。何人もの人が自分から担当者の名乗りをあげ、そのリストはほぼ埋まってしまった。それぞれが自分の得意なところ、やりたいと思うところで奉仕していくという理想的な枠組みができた。4月には私たちがぜひともと招聘した牧師を迎える。さてどんな一年になるだろうか。
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