たりたの日記 DiaryINDEX|past|will
今日の聖書日課はマタイによる福音書4章18〜25、イエスが四人の漁師を弟子にするという記事だ。この話を初めて聞いたのは子どもの頃だった。子ども心に「人間をとる漁師にしよう」とはうまいことを言ったもんだと、妙に感心した記憶がある。子どもはそもそも柵などあまりないし、たいてい誘われればひょこひょこついていくのが日常だから、イエスから「わたしについて来なさい」と言われすぐに網を捨ててイエスに従ったというくだりにはさして感心もしなかったような気がする。自分に子どもというものができたとき、何を捨てろといわれてもこれだけは捨てられないという柵ができてしまったことを知った。生後6ヶ月の赤ん坊を抱いて郷里へ向かう飛行機に乗ったとき、それまで一度も怖いと思ったことがなかった飛行機を初めて怖いと思った。命が惜しい、事故には会いたくないという気持ちを持つ自分を別の人間のように気味悪く感じた。あの頃なら、やすやすと家庭を捨ててイエスに従った漁師たちに共感など持つことはなかっただろうし、むしろ家庭から父親を連れ出したイエスを恨みにさえ思ったにちがいない。子育ての時期の母親とはそういう生々しく、エゴイスティックな母性に支配されているのだ。子どもたちがすでに親がいなくても生きていける時期を迎えようとしている今、この聖書の記述はまた違った表情を持って見えてくる。「ああ、いいなあ」と、網を捨てた漁師たちの後ろ姿を羨望を持って見るのである。家も持ち物も、自分を支配しているいっさいの柵から解き放たれ、ただひとすじに信じる人の言葉に従って旅に出ることことはとても幸せなことのように感じられる。そういえば、2,3日前に届いたメーリングリストの中に医者と看護婦のご夫婦がアフガニスタンへ渡り中村哲医師の手伝いをするという決意を書いておられた。暮れに夫と中村医師の働きを取材した番組を見ながらどちらともなく、退職したらどこか必要な国へ行ってボランティアをしたいねと話したことを思い出す。今ある安定した暮らしを捨てて何もないところで人の役にたって生きたいという願いを持っている人は少なからずいることだろう。そして密かに「わたしについてきなさい」という強い声を待っているのだろう。人間の本性に中にそういう気持ちが眠っているような気がする。
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