たりたの日記
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2002年01月13日(日) 主の洗礼日

教会暦では先週の日曜日でクリスマスが終わり、今日の主の洗礼日からキリストの公生涯をたどっていくことになる。やがて受難節そしてイースターと続く。

イエス自身はバプテスマのヨハネから洗礼を受ける。聖書には「そのとき、天がイエスに向かって開いた」とある。また「神の霊が鳩のように御自分の
上に降って来るのを御覧になった」と記されている。
今日の主日のメッセージでは、洗礼は自分の意思や決意ではなく、神から一方的に与えられる恵みだということが語られた。確かにそうだと思う。人間の意志の力で神の存在、イエスのあがない、聖霊の働きを信じるのではなく、神の方が捕らえて信じる者とさせてくださるのに違いない。しかし、この道を歩みますとイエスに従って行きますと神に約束したのだ。洗礼にはそういう決意という側面もあると思う。
私がそのスタートラインに立ち合図と共に走り始めたのは21歳のクリスマス。長い長距離走を走り出す前の気持ちににていた。走れるのだろうかという不安の方が大きく何の晴れがましさもなかった。あの時読んだ信仰告白文の最後に「私は弱い時にこそ強いからである」というパウロの言葉を書いた。書いた時にどれほどその意味を理解していたのかは分からないが、弱い時にこそすぐ脇にイエスの並走を感じてきたことは確かだ。

礼拝後、役員会。昼食も取らないまま4時まで話しあったが、総会にむけて画期的な組織編制の提案がまとまった。
その後、上智大学の構内で行われる賛美と祈りのつどいに参加すべく四谷に向かう。宗派は問はない集まりだということだったが、100名近い参加者はみなカトリックの信徒のようにお見受けした。私はプロテスタントだと自己紹介すると会の後で、何人かの方が声をかけてくださり、メールアドレスもいただいた。フレンドリーな方々だった。

この会の中で初めて異言というものを聞いた。皆で何曲か賛美歌を歌った後、誰からともなくそれぞれが思い思いの言葉と節で賛美を始めたのだが、それぞれどこの国の言葉とも知れない言葉があちらからもこちらからも聞こえてくる。あまりに流暢なので完璧なバイリンガルがずいぶん大勢いるものだとみごとな外国語での賛美に聞きほれていたがこれが聖書にも出てくる異言というものだということが後で分かった。そこには何か荘厳な犯しがたいクリアな空気があった。それぞれが違った言葉や響きを発しているのに、その響きや節のうねりはなぜか調和していて不思議なハーモニーができていた。
私の知らない不思議はまだたくさんあることを思う。
どんな不思議にも自分を開いていたい。



マタイ3章13〜17

◆イエス、洗礼を受ける

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


たりたくみ |MAILHomePage

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