たりたの日記
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昨夜遅くホームページの掲示板を開くと、ふじたあきこさんという方から書き込みをいただいていた。タイトルは「たりたくみさん有難う」となっており このような書き込みだった。
<明けましておめでとうございます。 昨年はたりたさんのお部屋に人知れずお邪魔して ゆっくりさせていただきました。詩やエッセイを読ませていただき、日記を愛読して新しく迎えた2002年の最初の日にこうしてご挨拶をお送りしております。沢山の贈り物を心から有難うと申し上げます。1日の終わりに開くあなたのペ−ジからどんなに多くの慰めと希望をいただいたことだったでしょう。今年もどうぞよろしく..上よりの祝福を心から祈りつつ>
この書き込みを何度も読みながら不思議な感慨に浸った。書いたものをサイト上でオープンにするということは私が会ったこともない方から読んでいただくということを十分に予想しているし、また読む人がいるから何にでもすぐに飽きてしまう私がこのように書き続けることができるのだと思っている。実際、夫や友人、またネットで知り合った方々が読んでくれていることで励まされている。けれども、お会いしたことのない(恐らく)方からこのように読まれていることを知ると、何か今までに覚えのないしみじみとした気持ちが起こってきた。そしてこの「日記」を始めた時、こういう出会い、こういう触れ合いをこそ密かに期待していたような気さえしてくる。それというのも、私自身、実際に会ったこともない人の書くものを読むことで深い慰めや共感をいただき続けてきたからだ。そこには書き手と読み手という関係を超えた相互に行き交うダイナミックな関係が生じる。私はほとんどの場合、本の中にはさまれている読書カードに感想を記入することはない。ある意味で感想というものが書けないほどに書いた人の魂と深く結びついてしまう。そうなれば、もうそれで十分満足で書き手にもその気持ちは通じているはずだなどど思ってしまうのである。
こうした書く者と読む者との心の繋がりを反対の方向から体験したのだと思う。今まで読み手であっただけにふじたさんから伝えられた言葉が染みわたってくるし、そこに起こる交感の恵みを書く者の立場で味わっているのである。 表現するということはそれ自体、とても恵みと慰めに満ちたことであるが、その表現が他者の慰めにも成り得るのだとすればなんという感謝だろう。
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