たりたの日記
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私の育った家は典型的な核家族で、しかも両親の故郷からは遠くに我が家だけで暮らしていたから、親しい親戚づきあいはなく正月だからと親戚の家に行ったり誰かが来たりということがなかった。当然お年玉というものはない。親からもなぜかもらっていなかった。そもそももらったことがないのであれば、なくて不自由することもなかったから、正月明けにクラスでお年玉が合計でいくらになったなどどいう話を聞いてもしれほど淋しい気持ちにはならなかったような気がする。そういうことで言うなら我が家は他の家と日常的に違うことが多すぎて、違っていることがむしろ普通だったが・・・
私と弟たちは共働きの家庭で育つ鍵っ子の走りだった。実際は鍵を首にかけて登校していたものの、あまり紛失してしまうものだから、鍵は持たずに家はいつも鍵を開けてておくことになった。取られるものなど何もないからと 言っていたが、いくら田舎のこととはいえ、一般的なことではなかったに違いない。自分のことは自分でやるというのは我が家の常識で、また勉強しょうがしまいがとやかく言われることもなかった。それぞれがそれぞれに抱えていることでカンバッテいたから、子どもといえども世話をしてもらうという意識はもたされていなかった。
こいいう育ち方をしたためだろうか、あるいは私の性格なのだろうか。自分のことは自分で、人の世話にならず、人の世話もしない、めんどうな人付き合いも苦手という非常にクールな面がある。一方で、家族が助けあったり、親戚が行き来したり、隣近所の人たちとつつがなく暖かい交流をしたりという自分に欠けているものにあこがれ、無理にでも自分をそこへと持っていこうとする一面がある。でもここのところでこの2つの私がいつもぎくしゃくとぶつかる。親や兄弟、親戚といった血縁に対してクールであまりかかわりあいたくないというもともとの気質と親兄弟と世間なみに近い関係を持ちたいという願望がぶつかりあうからだ。よくよく振り返ってみると、他とちがう自分の家を受け入れながらもそうではない親子関係や親戚との関係を見て「欠け」を感じてきたのだろう。「違う」ということへの漠然とした不安のようなものが確かにあったような気がする。
歳を取るとともに血族に対するクールさに後ろめたさを覚えるようになってきた。その感覚はは通奏低音のように、あるいは低い耳鳴りのように消えることはないが、暮れから新年にかけてはその音がひときわ大きくなってくるような気がする。今朝目が覚めた時に世田谷に住む伯母を訪ねようと思ったのはここ何日か大きくなっていたあの通奏低音のせいだったのかも知れない。私と夫の親戚はほとんど九州に集中しているが、唯一母の姉が結婚してからずっと世田谷に住んでいる。母より11歳年上の伯母も義理の伯父も身体は弱ってきたもののまだ元気だ。暮れに検査で入院していた伯父も結果が良かったので退院しており、元気そうで安心した。
1月1日から売り出しのANAの超割航空券が取れた。3月の頭にには生徒の高校入試も終わっているし、年度末よりは仕事のやりくりも付けやすい。この時期を利用してて夫と私の実家へ帰省することに決め電話をする。母は「わざわざ帰ってこなくていいよ。」という。母の方も世話にはなりたくないという気持ちと子どもたちがみな遠くに離れて暮らしていることの無念さとの間を行きつ戻りつしているのだ。こういうぎくしゃくはしかし、一見普通に見える家族にだってあるものなのかもしれない。家族ってなんだろう、どういう関係を育てていくのがいいのだろうと時折、考えがそこで停止してしまう。私の中の葛藤はこれからも続くのだろうか、それとももっと別なものに形を変えていくのだろうか。子も親も否応なしに加齢は進んでいく。お互いが何を必要とするかは刻々と変化していくのだろう。その変化に自然に対応できるようになるために、私の中にずっと潜んできたネガティブな想いを手放していかねばならないとそんな気がする。
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