たりたの日記
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一日はどこを取っても私の人生においては一回きりのものである。 お正月といってもそんな一日に変わりはないが、ふと後何回お正月を迎えるのだろうと思い、そばにいた夫にあと40回くらいかしらと言うと、「そんなに」とびっくりされてしまった。後35回くらいが妥当なところじゃないかということになる。
渋谷でのカウントダウンとそれに続くパーティーとやらで朝帰りした長男も揃い、おせちを並べた新春の食卓を4人で囲む。「おせちがこんなにおいしいと思ったのは初めてだなあ。」と、長男。あちこちでお酒も飲むようになって味覚が大人のそれに近づいたのだろう。テーブルの上の料理は例年になく、みるみる無くなっていった。一方、夫と私は前のような大食いをしなくなっているためか、お雑煮はどうしても入らない。夕食にいただくことにする。こんな場面でも、家族のステージが移り変わっていることに気づかされる。
カルタも凧揚げもしなくなったお正月、子ども達は午前中の家族団らんでもう十分とばかりにそれぞれの部屋へと引き上げ、夫と私は初売りへと車で出かけた。数ヶ月前に愛用していた私の第一号のパソコンが壊れてしまって、それからというもの義姉が不燃物の回収の日に出そうとしていたパソコンを九州から送ってもらって使っていたが、元旦にパソコンを新調しようということになっていた。我が家で一番パソコンの知識の無い私が一番フルに使っているのだから、新しい高性能のものを使う権利があると夫は積極的で、私専用のものだけれど、10万は出してくれるという。目を付けていたSONYのVAIOのノート型は長男がおばあちゃんからの入学祝いで買ったものよりはるかに安くて機能も新しく、しかも音の良いスピーカーとDVDが付いている。「これ、5年は使えるかしら。」と言い、5年後の自分をふっと思い浮かべた。50歳、もう初老ではないか。そう思うと16万のパソコンは惜しくないという気になった。 残りのあまり多くない日々を記録したり、物を書いたりする道具としてこれまで以上に使いこなそうと思った。丼勘定の家計もこれで管理し、あちこちのノートに分かれているアドレスをまとめ、仕事のスケジュールやプライベートなプランもここへまとめていければいい。そう、収束の時期に差し掛かっている。集めたものは整理し、広げた風呂敷は取捨選択していかなければ。
出かける前、郵便受けを覗くといくつかの郵便物に混じってなつかしい筆跡の封筒があった。キャロルからのクリスマスカードだ。毎年必ず、2人の娘の写真入りのカードを送ってくれる。我が家の次男が通う保育所でクラスメートだったキャロルの長女はすっかり大人びた父親の側のイタリア系の美人に変身しており、まだ赤ちゃんだった末の子はドイツ系の祖母にそっくりの顔になっていた。カードの裏にはびっしりと書き込みがしてある。車の中で読み進む内にはっとした。私たちの共通の友人で教会学校では次男のクラスをボランティアで教えていたリンダが昨年4月に急逝したことが書いてあった。リンダの養女は次男よりひとつ年上、今年の夏高校を卒業するはずだ。日常的にすっかり忘れていたリンダやその家族のことが鮮やかに思い出される。交わした言葉の中で心に響いた言葉や彼女の包み込むような愛情豊かな表情が不思議なほどくっきりとした輪郭を持って浮かびあがると私のうちで新たな場所を占めてしまった。もう彼女を忘れることも、記憶が色あせることもないだろう。人の死はある時、新たな出会いになる。その人の魂と生前にない強さで結びつくかのようである。リンダが私にとってどんなにかけがえのない人だったかを改めて知った。
あと35回くらい正月を迎えるだろうとのんきな会話をしたが、実際は明日の命の保障さえない。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 マタイによる福音書25−13
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