たりたの日記
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昨夜おそく、銭湯から帰ってくるとテーブルの上に息子が記したメモがあった。 へたくそな字で走り書きしたそれはTさんからの伝言で「遅くなってもいいので電話して下さい」ということだった。すぐ電話すると、明日大宮に来る用があるから会わないかということだった。実はここ数日間、Tさんのことを考えていたのだ。カトリック教会に行っているTさんとヴァッスーラの預言のことを話してみたいと思っていた。
一年振りに会ったTさんに以前よりやわらかな印象を覚えたが、彼女が孫を持つ身となったことと関係があるのだろうか。私たちは会わない間に起こった変化や新しい出会いのことや、今やっていることなどをいっしょにお昼を食べながら話した。 最後に会ったのは去年の5月の声楽の発表会の時だった。私たちは同じ声楽の先生の門下生という間柄だった。数多くの門下生の中でも特に彼女と親しかったのは初めて出会った古楽の音楽祭で寝泊まりを共にし、その頃お互いに関心を持っていた精神世界の話しなどで共感することが多かったからだ。そうかお風呂にもいっしょに入ってしょっぱなから裸の付き合いだった。
Tさんから「なんだか変わったわね」と言われた。私は前は何か内にこもる感じだったらしい。あの頃と今の変化といえば、身体的には子宮を取ってそのお陰でひどい貧血から回復しことが大きな変化で、精神的なところでは4月からほぼ毎日読まれることを前提とした日記を書くようになったことだろうか。私が以前に比べ、自分を開いている印象が強いのだとすれば、それは書くようになったことと関係があるような気がする。元気に見えるとしたらヘモグロビンの量が人並みになったせいだろう。
母親の立場、主婦の立場、教師の立場、教会員の立場、相手により場所により一つの私はいくつもの分かれる。どこかでほんとの私をセーブするかあるいは立場に自分が埋没してしまうような気がしていた。いろんな立場を脱いだ後、ひとりっきりになってここで書くことでなんだか癒される。座標軸をもとの位置に戻して私は私の真ん中に腰を落ち着けるのだ。これってずいぶん健康的な営みではないだろうか。歌うことも体にいいけれど。
そういえば、私たちが指導を受けた声楽家は「うそいつわりのない自分の声を取り戻す」ということをよくおっしゃり、自分の生の声、えぐい声やストレートな声を出すことを強調されていた。いつのまにか身につけてしまった「らしい」声を自分の声に戻していく作業は「目から鱗」だった。私は今はレッスンを中断しているが、3年間の間に歌う声はずいぶん変わったと思う。また声以上に表現する方向が変わってきているような気がする。「うそいつわりのない」がキーワードだ。
Tさんは偶然に出会い、かかわるようになったあるクリスチャンのオーガニゼーションのことを話してくれた。今度訪ねることになった。ここにも探しているものがありそうだ。きっと、今出会っていることと繋がりがあるのだろう。彼女に初めて会った時の不思議を今日また感じたことだった。
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