たりたの日記
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11月になった。10月のカレンダーを破り取ると、ずっしりとしたカレンダーの手ごたえはなく、なんとも頼りない。そうだ、あと一枚しか後ろにないのだもの。今年がもう終わりに近くなっていることに改めて気づかされる。
11月に忘れずにしなければならないのは、春に咲く花の苗や球根の植え込み。 チューリップの球根はカタログなどで注文して早々と用意するのだが、植え込みは花屋にパンジーやビオラの苗が出回るようになるまで待つ。 チューリップだけ植えたのでは芽が出る春先まで黒い土ばかり見ることになり つまらないので、チューリップと他の花の苗を寄せ植えにすることにしている。 注文したカタログの写真を見ながら、咲いた時の他の花との色やバランスを思いうかべながら植え込みをする。 今年はピンク系のチューリップを6種類35球用意していた。この球根には白いスイートアリッサムの小花やパープル系のビオラや濃い紫のムスカリを合わせる。
今年は予定していた球根の他に夫がオランダに出張に行った時にお土産に買ってきた球根50球という飛び入りがある。ひと袋に色んな色がいっしょに入っているので、色を予測して植え込むことはできないが、どんな花がどんな具合に出てくるのか楽しみでもある。パッケージの写真を信用するとすれば、赤、白、黄色の定番だ。黄色やオレンジのパンジーを加えて原色系のプランターにしよう。
春のはじめまでに植え込み時には頼りなかったビオラやパンジーが根を張り、株はしっかりしてくる。4月に入り葉がこんもりと茂る頃、花の間からチューリップの葉が顔を出す。そのうち、ビオラやパンジーを押し退けるようにして、チューリップがぐいぐい伸び、やがてメインはすっかりチューリップに取って代わる。しかし、チューリップの寿命は短い。早々と花が終わった後、パンジーたちに再び出番がくる。多少長く伸び過ぎて格好は悪くなるものの、夏が始まるまではワイルドに咲き続けるのだ。いよいよ夏から秋にかけての花と植え替えをするまで、この花たちと半年以上付き合うことになる。
そんなに長い間、楽しませてもらえるのだから、植え込みはゆっくり、丹念に楽しみながらやりたいのだが、いつもそうはいかない。 なぜなら私は植え変えや植え込みが好きではない。植え込みの前には終わりになってしまった花を鉢から抜き取って、土改良剤などで土を再生させるという仕事がある。すでに花は終わってしまっても、すっかり死んでしまうわけではない。まだ根は生きている。葉もいくらかは付いている。そんな植物を抜き取ってゴミ袋へ入れる時なんともいやな気分になるのである。そこで、あまり考えないようにさっさと機械的に手を動かそうとする。一刻も早く、この仕事に方を付けたいとあせるのである。あるいはどうしようかと立ち往生したり、思いきり悪く、まだ生きている夏の花の脇にパンジーやビオラの苗を植え込んでみたり、終わりかけの植物を鉢から地面に移してみたりとほとんど気休めのようなことをやる。 我が家の庭がどこか野生っぽくてきれいに整っていないのは、多分にこの入れ替えの思いっきりの悪さのせいだ。草もあまり抜かず、また時期が過ぎて徒長した植物をいつまでも処分しないでおくからすっきりした印象にならないのだ。 でも、私は草一本もない、枯れかけた花や花がらがひとつもないような庭はどこか好きになれないというひねくれ者だ。大方のガーデニングの本に私は従っていない。そういえば、子育てもそういうところがある。愛情がないわけではないが、雑である。「かってに育ってね」という気分が底にある。ガーデニングも子育てもプロ根性に欠けている。
ところで、前にガーデニングのことでメイ・サートンの「独り居の日記」から引用したことを思い出した。4月1日の日記だ。 『..............そこへいくと庭つくりはまったく趣きが違う。広く”聖なるもの”ー成長と生誕と死ーに向かって開かれているからだ。花々の一つ一つがその短い生命のサイクルのうちにすべての神秘を包んでいる。 庭のなかではわれわれはけっして死から、あの肥沃で、すこやかで創造的な死から、遠いところにいない。』 そう、季節が終わって植物は死ぬ。その死を私は彼女の言うように肥沃ですこやかというふうには受け止めきれていないのだとふと思う。植物を抜いたり、始末したりするのがいやでその時は植物に対して心を閉ざしてしまう私は植物の死を忌み嫌い、自分とはかかわりのないことだと思い込もうとしているのだ。 しかしこれは正しくない。育てるのであれば、その死も引き受けるのでなければならないだろう。そこのところに逞しく、潔く向かうというのが植物への礼儀だろう。今はだめでも、そのようにきっぱりしたものを持てるようになりたい。このことは子育てにも通じるのだろうか、大人になりかけた息子たちに接する母としてはきっぱりとした厳しさが欠けているように思う。
植え込みを終えて、しばらくはなみずきの下のテーブルで本を読んだ。目を上げると、夏の間豊かな緑の木陰を提供してくれた葉は秋の色になり、方々には美しい赤い実がたくさん付いている。実は冬の間の小鳥たちの食べ物になるのだろう。 散っていこうとしている葉の側には新しい春の葉と花の芽がすでにふくらみ、これから来る冬の向う側にある春を待って待機している冬が、そして春が来る。
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