たりたの日記
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2001年09月23日(日) 復讐してはならない

NYのテロ事件の直後、聖書を開いた時に飛び込んできた活字が太字で印刷されてある「復讐してはならない」という言葉だった。
マタイによる福音書5章38節から42節。これに続いて、「敵を愛しなさい」という記事が続く。
ともに、イエスが群集に向かって語った言葉である。

<復讐してはならない> マタイによる福音書5ー38〜42
「あなたがたが聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

<敵を愛しなさい> マタイによる福音書5ー43〜48
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたが、天の父の子になるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

アメリカの経済のシンボルだった、天にそびえ立つ美しい二つのビルが破壊され、行方不明者は6千人にも登るとうい現実の前で、虚脱感に襲われる。思考が停止してしまう。こんなに遠くの国にいてもそう感じるのであれば、アメリカの人々、特にNYやその近辺の人達の痛みはどれほどのことだろう。実際、多くの方がひどい鬱状態の中にあるという。

アメリカでは今、国旗と銃が売れているという。皆が愛国心を奮い立たせることで、この苦痛の中から立ち上がろうとしているその気持ちが痛々しいほどに伝わってくる。91パーセントのアメリカ人が報復に賛成していると報道されている。国家を歌い、旗を振り、一団となって敵に立ち向かう。そのことで喪失感から脱しようとしているように見える。しかし、アメリカ社会で生活するイスラム教徒への迫害がエスカレートしているし、報復処置で実際に苦しむのは逃げ場のない女性や子どもたちということは明らかだ。罪のない人たちの苦しみや死はさらに広がっていく。

平和な地球の裏側にいて、彼らを批難することは許されないことかもしれないが、もし、このことが日本で起こったとして、私はこの厳しい、イエスの言葉を手放さないように持っていたいと願う。このイエスの言葉は平和の中では快く響き、親は子どもに、教師は生徒に教えさとすのに、好都合な言葉だったはずだ。クリスチャンなら何度となく耳にしながら育ったはずだ。しかし、ほんとうに自分を痛めつけるものを前にした時、自分が苦しめられる立場に立った時、この言葉を受け入れることは容易ではない。しっかりと掴んで死守するつもりでおかないならば、この言葉はまるで絵空ごとに吹き飛んでしまい力を失う。私たちの怒りはとてつもなく大きい。あの大きなビルを一撃のもとに倒してしまうほどの憎しみを内に持つことができるのだ。憎しみに対して憎しみで応答した時、そこに訪れるのは何だろうか。より大きな殺戮、罪のない人達の死、世界の崩壊。

イエスはこの言葉を貫いて、一人、十字架の上で血を流した。自分の体を死ぬために悪の手の中に引き渡した。イエスは十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言った。私たちの中に
ある怒りを復讐心をイエスは御自身の内にすべて引き受けて生け贄の小羊となって死んだ。

復讐するのではなく、敵のために祈るという厳しい課題はイエスの十字架なしに私達は乗り越えることはできないように思う。けれど、イエスの十字架の故に怒りを愛に変える道も与えられている。私たち、ひとりひとり、何を選択するのかこれからは問はれ続けることになるのだろう。


たりたくみ |MAILHomePage

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