たりたの日記
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新井献先生の講演「聖書の中の女性たち」を聞く。 新井氏は東京大学名誉教授、恵泉女学園大学学長という肩書きの他に日本 フェミニスト神学・宣教センター委員という肩書きを持つ聖書学者だ。 ずいぶん前に彼の著書「イエスとその時代」(岩波書店、1974年)を読んだが、どのページにも鉛筆に力を入れてぐいぐい黒い線を引きながら読んだことを思い出す。イエスがくっきりと見えてくることがうれしかった。教会の中では出会えないような生き生きとしたイエスとの出会いがあったような気がする。抑制の効いた、あくまで学問的なアプローチだったと思うが、こみあげてくるような深い感動があった。そういう著書との出会いがかつてあったので、この講演を楽しみにしていたのだった。しかし、男が語る フェミニズムは何かピンとこないものがあり、そういう意味からも興味津々といったところであった。
「新約聖書のマルコによる福音書はイエスのほんとうの弟子は、伝えられている十二弟子ではなく、イエスのそばにいた女性たちだったということを物語っているという見方がある。」という大胆なところから話しは始まった。マルコによる福音書は 4つの福音書のなかで一番先に書かれたものであり、他の福音書の元になったものだ。 ではなぜ、そういうことが言えるか。イエスが十字架の上で処刑された時、イエスの一番弟子といわれるペテロをはじめ、男の使徒達はみな、ちりじりに逃げてしまったのは周知のことである。ペテロなどはイエスの予言どうりに鶏が鳴く前に3度イエスを知らないと否定したのであった。そこで、マルコによる福音書15章の40節には十字架の上のイエスを見守っている女性たちが描かれ、名前も記されている。マグラダのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメだ。逃げていった男の弟子たちとは対象的に最後までイエスに仕えた 女性たちのことがきちんと記録されているのである。また、復活したイエスがまず現れたのも、この三人の女性たちの前だった。 何を持ってイエスの使徒と定義するかといえば、常にイエスと行動をともにしていた者、そして復活のイエスに直接出会った者とされる。その定義にのっとれば、最後までイエスの側にいて従ったこの女達こそ使徒ということになる。
なんとも胸がすく話しだった。自分が女だから優越感に浸るというのではない。私が感じてきたイエスの感受性と、そのイエスの感受性をほんとうに知っていたのは女性たちだったのではないかという思いが講議の中で具体的にまた学問的に実証されたからだ。 教会は非常に男性的な理論に支配されていると思う。教会に限らず、国家、政治、社会機構、すべて男性の思考の上に成り立っている。その中で女性的なものの見方は重要ではないもの、正しくないものとして退けられてきた。男性の理論の上に立って男性と変わらない考えや仕事をする女性は受け入れられてきたが、今でも女性の特質や感受性はひどく脇に寄せられる。様々な場面でそれに直面してきた。
わたしがなぜイエスに惹かれるのか。男性の支配する教会にことごとく失望し、傷ついても、イエスの弟子でありたいと願うのはなぜか。その理由の一つに、イエスは男性でありながら、女性的なものの中にある感受性を理解し、それを何よりも大切なものとしてきたという点がある。ある意味で男性の構築してきた社会を破壊するような、反社会的な人であった。 全体ではなく個を。法律ではなく愛を。戦いではなく平和を。弱いものこそ強いと。イエスそのものが女性的な感性を持っている人だった。
講演の後半で、氏は聖書をどのように受け止めるかという点で、三つの立場があるとし、御自身の立場を明らかにされたがこのことに関しては明日、続きを書くことにしよう。
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