たりたの日記
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2001年09月18日(火) |
フェミニスト神学、つづき |
昨夜、このテーマで書く予定にしていたのに「風の谷のナウシカ」のコミック本にはまってしまい、書けなかった。いつかナウシカのことも書こう。15年前に読んだ時には見えていなかった部分が見えるようになっている。
さて、本題、前回のつづきである。 聖書をどのようなものとしてとらえるかということは、学者の間でも、教職者の間で様々に意見の分かれるところだ。カトリック教会は別として、プロテスタントは宗派によって理解の仕方にはかなり違いがある。私自身、大変リベラルな牧師から、保守的な牧師まで様々な立場に立つ牧師の話しを聞き、また接触してきた。
荒井氏はこの問題について、大きく3つの立場があると説明された。 第一の立場、これは、聖書の言葉は一字一句、神の霊感によって書かれたもので、何の間違いもないとする逐次霊感説を取る立場で、原理主義といわれるもの。 第二の立場、これは聖書の聖典性を否定し、聖書を越え、聖書を捨てるという立場で、ポストモダンといわれるもの。 第三の立場はいわば、第一と第二の中間の考え方で、聖書の聖典性を受容しつつも、聖書をあくまで人間による信仰の証の書として受け取る立場である。 従って、聖書は社会的、歴史的影響を受けていると考え、私たちには信仰を選択する自由が与えられている。つまり、自分がこれだというメッセージを選択することが可能だとする。
荒井氏は御自分は第三の立場を取る者だとおっしゃった上で、女性を低い立場に置いている、マタイやルカによる福音書や、ユダヤ社会の影響を色濃く受けているパウロの書簡ではなく、マルコによる福音書を選択するといわれた。なぜなら、マルコは人間の尊厳に対する鋭い感受性を女性の中に感じ、その視点で福音書を書いているからだと。
「人間の尊厳に対する鋭い感受性」という言葉を耳にした時、この言葉が非常な強さと光りを伴って内側に入ってきた。 私がイエスを慕う理由、教会に繋がってきた理由がこの言葉の中にあると確信したからだった。また同時に、キリスト教に、また教会にしばしば批判の目を向け、また失望してきたことの理由もこの言葉の中にあると分かった。人間の尊厳に対する鋭い感受性が重んじられるべき場所が皮肉なことに、それを軽んじる場所になることがある。大方の社会の機構が「人間の尊厳に対する鋭い感受性」を失っているが、たとえそうであるにせよイエスを信じる集団が大方の社会と同じ感覚に支配されていることにがまんがならない。
教会の外には「人間の尊厳に対する鋭い感受性」を持ち、それに従って生きている人たちが大勢いる。心情的にはその方々との方が結びつきの方が強く、行動を共にしているという充実感がある。そういう方々と接触するにつけ、その人の内なるイエスに出会い、はっとさせられるのである。イエスのおられる場所はけっして教会の中だけではない。キリスト者はそのことに目を開かなくてはならない。イエスは言われた。 後のものが先になると。
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