たりたの日記
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今日はK先生に手紙を書いた。PCに書くようになってから、手紙を書くことがとても面倒になってしまっている。ここ一月ほど、書こうと思いながら、書けずに気にかかっていたので、今日便箋6枚に、私や家族の近況を書いて投函した時にはずいぶんとすっきりした気持ちになった。
K先生は私が17歳の時に、私の通っていた教会に伝道師として赴任してこられた女性の教職だった。彼女は40才になった時、牧師になるべく、それまで20年ほど勤めた職場を辞し、夜間の神学校に5年間通って卒業し、その教会に赴任してきたのだった。それから彼女が他県の教会へ移るまでの2年間、毎週日曜日ごとに顔を合わせ、その他に何かと理由をつけては友達同伴で彼女の貸家に上がり込んでは長居をした。彼女が他県に移ってからは、夏休みや冬休みに彼女を訊ねては数日居候をした。
考えてみれば、その当時彼女は、私の親と同世代であったが、私は彼女を親やその周辺にいる大人たちと同列には見てはいなかった。私がこれまでに出会ったことのない女性であり、教師だった。きちんとした生活をしている人で、食べることにも、住まうことにも、家事全般に大変なこだわりがあり、また徹底しており、私は相当に大きなカルチャーショックを受けたのだった。また、いわゆるおばさんの世代の人とは思えないような、並々ならない勉強の質と量に圧倒されもした。そんな彼女はまた大変に厳しい人でもあった。その頃、ほとんど惰性のように教会に出入りし、息が詰まりそうな受験勉強からしばし逃れるための避難所くらいにしか教会を考えていなかった私に、彼女は正面から神に対面する態度の甘さを突いてきた。いったいどういう経緯で、その話しがでてきたかは記憶していないが、彼女が言ったことで刻印されてた言葉がある。「Yちゃん、神様はね、熱いか冷たいかどちらかであれって言っている。生温いものは口から吐き出そうって、おっしゃってるのよ。」 ガツンと頭を殴られたようなショックがあった。神への姿勢に留まらず、その当時の私が抱えている様々に形を変えた甘えや生温さが日の元に照らされたように感じた。ぴしりと芯が通っている彼女の前で、若くエネルギーに満ちているはずの私はひどく弱々しく、頼りなく映った。私は彼女との接触の中で、洗礼を受けて別の私として生まれ変わりたいという願望を初めて持ったのだった。
今私はその時の彼女の年齢を生きている。彼女の生き方の力強さ、甘さのなさにはとても追いつけない自分がここにいる。あの時の彼女のように、頼りない女子高校生に一撃を食らわすことなどできそうにもない。この夏、一年ぶりくらいに電話をしたが70をいくつか超える歳になってもあの凄さはすこしも衰えていないことを知った。日々聖書の研究と祈りを中心に生活している様子が伝わってきた。「あなたのことは毎日祈っているよ。ほんとうだよ。あなたが一所懸命生きているってことはよく分かっているから、私は心配はしていないよ。ただ手紙をよこさないから、何を祈ればいいかが分からないじゃない。私は抽象的な祈りは神様に失礼だと思っているから、できるだけ具体的に祈りたいのよ。だから時々は近況を伝えて。」返す言葉がなかった。まず、近況も知らせない私のことをこれまでずっと毎日欠かさずに祈ってくれていることにパンチを食らった。そして17の時のように、私自身のいい加減さや甘さに一撃を受けた。彼女から言われてしまった。 「主婦の仕事をきちんとやっているの。家族ひとりひとりの食べ物をよく考えて手抜きしないで作るのよ。コンピューターで日記書いてる?そんなことは止めなさい。子どもたちをすっかり育て終えてからやればいいんだから。」
「いいえ、先生が聖書の研究に打ち込んでいるように、私も母親や主婦の仕事だけではなく、自分を育てることがしたいんです。今という時を捕らえていたいんです。」心の中でこう言いながらしかし、本業をきっちりやっていないことがやはり後ろめたい。PCを抱え込んで座り込んでいるソファーの脇にまだ片付けていない衣類の山が私を睨んでいる。
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