たりたの日記
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なぜ、ビョークが好きなのだろう。 若い頃は別として、この20年くらいはクラシック、それもルネッサンス、中世の歌曲や、グレゴリアンチャントしか聞かなかった。夫や息子たちが家に持ち込む「今の時代の音楽」にはおよそ興味がなかった。それなのに突然 ビョークが好きになった。ロックのCD売り場に足を踏み入れるようになった。
ビョーク の作る音楽が好き、言葉が好き、ファッションが好き、歌い方や声が好き、理由はいくらでもあげられるが、一番の理由は私の本性ともいうべきものがビョークのそれととても似ているからだ。ただ彼女はその部分を彼女の音楽や言葉や生きざまに注ぎ込んでいるが、私のそれはかなり深いところに息を詰めるようにして隠れてきた。その部分はいわば、わたしのかなり内向的な部分で人がいると別の私の陰に隠れてしまうほどの内向さだ。それが、ダンサ−・イン・ザ・ダークの中でセルマとなった彼女に会った時、誰の目にも触れないように隠れていたもうひとつの私が現れてきたのだった。常識を無視する、大人であろうとしない、時に破壊的、自分の感性を何より大切にし、本能の趣くままに生きようとするもうひとつの私がある。
ある時、まだ子どもだった頃、私は私の本性に怯えていたような気がする。社会に容認される人間、できれば尊敬される人間へと向かって痛々しく努力を重ねてきたような気がする。そこには私の本性に対する誤解もあったのだ。私はそれを悪魔的、神に反するものと考えていたが、むしろ神へと向かうもの、肯定へと向かうものだったということがその時は分からなかった。mG (夫)に会った時、一度私は隠れていた私を明るみに出すことができた。私が私のままで受け入れられる場所があることを知ったことは大きな出来事だった。それでもやっぱり私は良い母、後ろ指を指されることのない大人に向かってまた痛々しい努力を重ねることとなった。だれもそれを要求しなかったというのに、、、。子育てにはそれが不可欠と思ったし、それはそうだったのだろう。
もう子育てが終わろうとしている時期にさしかかっていたこともあったろう、ビョークとの出会いが引き金になって、私は隠れていた私を引きずり出す作業を始めた。まずは言葉が出てきた。その言葉を自分の外に出したくなった。自分の表現が優れていなくても、完成されたものでなくても、私を私のままの顔で外に出すことを課題のように思った。これが私、後ろ指でも何でもどうぞと強いのである。自分をさらけだされたりしたら迷惑よ、と言われても、あまり堪えないほどふっきれているのである。ビョーク のようなアーティストの資質はなくても、彼女の言う「いつもわたしは神と本能に動かされているんだから」という歩き方を自分に許してあげたいと今は思っている。
新しいビョークのCD「ヴェスパタイン」はこれまでになく内面的だ。聖域、祈り、内側、隠れた場所、など自分の内側へと降りていく言葉があちこちに見えるし、何より音が内向的だ。ますます、世界は近い。彼女の中にあった内向性を私は本能的に感じていたことに気づく。私が隠れたところから出てこようという気になったのも、隠れたところを持つ彼女故だったのだ。9月号のCutに掲載されている彼女へのインタビューで、ダンサ−・イン・ザ・ダークの中で彼女がセルマを擁護したのは彼女自身の内向性を弁護することだったのかもしれないと語っている。
ところでグレゴリアンチャントを聞く私にはうさん臭そうな目を向けていた息子たちが、ビョーク となると、ちと違う。ビョークのCDを買ってきてくれたり、友達からビデオクリップ集を借りてきてくれたりとえらく協力的である。先日、次男が学校帰りに、ビョークの新しいCD、買ってきてあげようかと電話してきた。彼らは私の歩調の変化を好ましく思っているのだろうか、そろそろ自分たちを支配しようとする母親が疎ましく思え、別のものを求める時が来ていたのだろうか。良くは分からない。
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