たりたの日記
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2001年09月04日(火) 木の言葉、風の言葉

今日はすでに9月6日、なかなか今日に追い付かない。それでも、過ぎた日々を無視できないのは、そうすると永遠にその日は記憶から消えてしまうから。このところの忘却の速度はずんずん加速している。すること、読むこと、聞くこと、どれほど印象が深いことでも、他のことをやっている内に印象が薄れてくる。

さてここには昨日の「植物と話す人」の続きを書くことにしていた。
もうすでにここでも書いたような気がするが、植物と無関係に生きていた私がというより、ありとあらゆる花をすぐに枯らしてしまっていた私が、ある時 突然かわった。植物との通路が開けたことを知ったのだ。「魂との対話」の著者のマイケルのように植物からの語りかけが直接聞けるなどというのではないが、植物が能動的に人間に働きかけていると、また人間の思いも植物に伝わると感じ取ってしまった。そういう目でこの世界を見渡すと、自然はとてつもないものとして私に迫ってくる。何かは聞き取れないものの、木々や草原や花々からはさかんにメッセージが送られてくるようである。その国の言葉は分からなくても、その人の語るエネルギーを受け取り、そこに交流が生まれるのと同じように、私は植物が発しているエネルギーを受け取っている気がした。
だから、この本の作者が実際に植物からのメッセージを、それを聞けない我々に向けて書いてくれたその作業に感謝しこそすれ、作り話しだなどと思うことはできない。なんとひっかかりやすい人なんだと言われそうだ。そうかも知れない。でも、信じられるか、信じられないかなど、議論する時間はもったいない。これまでにも目には見えないこと、聞こえないことを信じてきたのだもの。植物や風や岩が語った言葉をわたしは喜んで受け取ろう。
あまりにもたくさんの言葉があって、とても書ききれないし、覚えきれないけれど、そこへと辿り着く道しるべのようにいくつかの言葉を残しておこう。
木や花や川は著作権のことで文句をいったりしないでしょ。それを翻訳したマイケルさんと、飛田妙子も載せてはダメなんて言わないと思うので。

木が話したこと
 <、、、あなたが意識して、植物にでも自然界のどんな種類のものにでも、思いを発すれば、あなたがたの光りがほとばしるのです。距離も時間もこの結合をくずすことはできません。私たちはこの真実をあなたに見せてあげることができたのだから、あなたはたやすく疑いを捨てることができるでしょう。、、、、認識を広げ・・・・理解しなさい>

バラが話したこと
 <枯れるバラを悲しまないでください。私は死ぬけれど、生きるのです。なぜなら、私はこの庭のバラであると同時に、すべての庭のすべてのバラであり、すべての花瓶のすべてのバラでもあるからです。私の花びらはすっかり乾いてしまいましたが、もしあなたの愛がなかったら、私は一日で枯れていたでしょう。見てください。花びらは一つも落ちていません。
植物の世界を愛してくれる人のエネルギーには、栄養が入っているのです。だからあなたは私に栄養を与えてくれたのです。私は薄れゆく光りの歌を歌いますが、でも、私はこの見えない光りの中にいるのですよ。物質的な死など、問題ではありません。死はいつも私たちといっしょにいる伴侶ですが、死に意味はないのです。死とは「生命がない」という意味ですが、これは正しくありません。形だけ、物質的な殻だけが屈服するのです。
生命は永遠です。常に存在し、常に広がっています。
私は、花の輝きの中にいます。あなたの存在の光りの中にも、私は永遠に生きているのです。
私たちのエネルギーは交じり合い、あなたの中で私は完全になるのです>

川が話したこと
<、、、、、きみが人生を探さなくても、人生のほうがきみを求めてくれるだりう。ここで逆接が現れる。たえず動いている生活を送っていても、「昨日の」目で物事を見ていると、動きや変化を拒んでしまう。小さな土地に建つ家に住み続けていても、「今日の」目であらゆる生命の動きを見ていれば、君は開かれた窓となり、人生はそこからいつも新鮮で新しく流れていく。
遠く広く歩き回り、動き続け、常に意識を働かせ、心を開き、あらゆる生命を「この瞬間の」視点で見ている人には・・・・人生は祝福されたものになる>

それにしてもこうして書いてみると、これらの言葉は始めて聞いた気がしない。ぼんやり窓の外を見ている時、田舎道を自転車で飛ばす時、いつもいつも押し寄せてきていた言葉ではなかったろうか。私は私の内から聞こえてくると思っていたが、あれは自然から送られてきたメッセージだったに違いない。


たりたくみ |MAILHomePage

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