たりたの日記
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2001年09月02日(日) |
目覚めてわたしを知ることを |
今日の聖書日課 <エレミヤ9章22〜23>
主はこう言われる。 知恵ある者は、その知恵を誇るな。 力ある者は、その力を誇るな。 富ある者は、その富を誇るな。 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。 わたしこそ主。 この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
謙譲の美とか、謙遜という言葉が私は好きではない。これに附随する「能ある鷹は爪を隠す」とか「沈黙は金なり」といった諺にもふっと心が曇る。考えてみれば、私はこの日本で育ちながら儒教的な思想が肌に合わないのだ。 ところが、同じことをエレミヤから「知恵を誇るな」「力を誇るな」「富を誇るな」と言われれば、私はたちまち素直にそれを受け入れることができる。 儒教や、日本の社会で徳とされる「謙遜」とこのエレミヤの言葉との差は何なのだろうか。聖書は「誇るな」というが、それは誇るべき方がまず存在するからだ。その方の前では、どんな知恵も、力も、富もなきに等しい。神と対比した人間というところで「誇るな」と言われるのである。説得力がある。一方「謙遜」というのは比較の対象がとても曖昧だ。人の中にあって自分を高くするなということなのだろうが、それは人の中で生きるための方便という匂いがして、真理からはどこか遠いような気がする。 エレミヤはさらに誇るのであれば、目覚めて主(神)を知ることを誇れという。この「目覚めて」という言葉が好きだ。神を見る眼差しは目覚めたものでなくてはいけない、様々なものに覆われていたのでは神が見えないのである。知恵も、力も、富も時として「目覚め」の邪魔になる。何をも誇らず、何をも後ろ楯とせず、裸のままで主の前にすっきりと立つ、そんな日々を送りたいと思う。
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