たりたの日記
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ルカ13章22〜30
◆狭い戸口
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」 と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたが たは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。
今日の聖書日課だった。教会学校で、この箇所をテキストに話しをする。 まず、レオ レオ−ニ作の絵本「あおちゃんときいろちゃん」の絵本の読み聞かせをして導入にする。あおちゃんも、きいろちゃんも、ふたりがいっしょになってみどりいろになったために、両方の親たちから、うちの子じゃないと閉め出されてしまう。いずれ大人たちにもそのことが分かり、それぞれの色どうしが交流して別の色になって楽しむことを覚えたというユニークな絵本だ。 この絵本のテーマとこの聖書の箇所は直接には関係がないが、客として招かれると当然のように行った家で、家の主人から「わたしはあなたを知らない」と閉め出される場面を思い描かせたくて、この絵本を用いた。
キリスト教にはこういうどきりとする場面がある。世の価値観や、人間の自然な心の有り様をひっくり返すのである。 自分こそは神から愛され、招かれるに値すべき人間だと考えてしまう我々に対して、「あなた方は閉め出される」とまた「先の者が後になる」と厳しい。 教会やクリスチャンという人種が自らを良い人、正しい人と思い込んでしまう、その故にかえって、神から遠くなってしまうことの危険をイエスはすでに警告しているのだ。
「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」 子どもの時この言葉を聞いて、どきりとしたことを覚えている。それはその時の私がすでに世の中の価値基準で物事を見ていて、自分に対して「先のもの」という意識があったからなのだろう。それが壊された。しかしまた元に戻ってしまう。そしてくり返し砕かれる。 天真爛漫のはずの子ども時代、わたしはもうすでに余計なものをくっつけていてうんと不自由だった。不自由なくせに、着物の脱ぎ方が分からなくて鬱々とし、さっぱり自分が好きになれなかったことを思い出す。
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