たりたの日記
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2001年07月17日(火) |
あなたがわたしと共におられるからです |
さっきから雷が鳴っていると思ったら、今急に雨が降ってきた。 大粒の雨らしい。ポツポツと窓を叩く音に続いて雨音が大きくなった。 宮崎はどうなのだろうか。 その地の病院に義父はいる。 明日、膵臓の手術をすることになっている父は この夜をどういう気持ちで過ごしていることだろう。 手術の前の晩は睡眠薬が出るだろうから、 もうぐっすり眠っているかも知れない。
膵臓癌の疑いがあったが、糖尿病や他の病気も持っており、 手術はリスクが大きすぎるのでしないということだったが 義父は手術することを決めた。 「やってみないと分からない」というのが義父の言い分である。 もしものことがあったらと家族は皆心配するのだが 義父は何かに信頼しているような強さで押し通した。 きっと私たちの預かり知らぬところで、神様と話しあったことが あるのだろう。
私達にできるのは祈ることだけ。それぞれがそれぞれの場所で祈っている。 宮崎に帰省した夫も、今日は友達の家に泊まると連絡してきた長男も、早々と寝てしまった次男も眠りの中で祈っていることだろう。 祈りは神様にお願いすることだが、同時に相手にポジティブなエネルギーを送ることだと思っている。ここが心配することとの違いだ。心配には信頼からくる平安はない。不安や恐れのエネルギーを知らず知らずの内に相手に送ってしまうことになる。本人はがんばろうとしているのに、回りの人間が心配のエネルギーを送ることでかえって、力をダウンさせることがあるのだ。 祈りは自分にはできないけれど、神様にはできるとその力を信じることである。しかし、それが神の御心のままになるようにという心が根底にある。祈りの結果がどういう形になろうと、たとえ祈ったことと違う結果が出たとしても、それこそが一番良い道だったと、その結果までもあらかじめ、受け入れるのである。そこに平安がある。
祈りには平安がある。その人の傍らに神がいて手を取ってくださっていることを思い描くからである。そしてそれより大きな安らぎが他にあるだろうか。 迎える明日、義父がその平安に満たされていることを祈る。 去年、私自身が手術を受ける時、手術台に載せられても、不思議なほど平安だった。すっかりこの命をお預けしているという安らぎさえあった。きっとみんなの祈りがあったからだと思う。支えられていたのだと思う。
雷はまだ鳴り止まない。 この宇宙の創り主、わが神。 この小さな命も、すべてあなたの手の中 そのことを思えば、なにも恐いものがない。
(聖書の言葉)
主はわたしの牧者であって わたしには乏しいことがない 主はわたしを緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂を生きかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。
詩篇23篇 1〜4
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