たりたの日記
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2001年07月07日(土) |
マオさんの書き込みから思ったこと |
<ハマオさんの書き込みから> そこで最近私が自分の内から感じることは、人間にはまず魂があって、 ある肉体に宿らされる。この瞬間が誕生なのでしょうが、ある意味では、 人間が肉体や物質に心を奪われている現代では、魂が希薄になるスター トでもあって、そして死を迎えたとき、本来希薄になどなってなかった 魂だけの存在に戻る、また肉体や物質にとらわれていた人間も、死者へ の惜別の思いの中で振り返るその人に、その人がどんなお金持ちだったか などではなく、その人の魂を見るのでないか、と。 そういきついてきた最近は、本当に死につづく自分の(生きるもの全部) の宿命がごく自然なのだと実感できるようになりました。
マオさんが書き込みに書いてくださったことについて思いを巡らせてみたと思います。 マオさんの書き込みを読んだとき、ああ同じだと思いました。さらに、そのことを私はマオさんとすでに共通理解として持っていたとそんな気になったのです。けれどそれは私の側の一方的な思い込みでマオさんはそうだったのと驚かれるかも知れません。マオさんの書かれるものや在り方を通じて共通する考え方を感じ取っていたというべきでしょう。
キリスト者として、魂や聖霊、また復活といった用語は小さいうちから聞いてきたわけで、馴染みの深い言葉であるわけですが、それをはっきりと感じるようになったのはここ5、6年のことです。具体的には、その人固有のエネルギーフィールドの存在を知り、これまでただの偶然の一致だと思っていたことの背後に確かな理由が存在することを実感するようになってから、肉体とはっきり別のレベルにある「魂」の存在が感覚的に掴めるようになりました。そうなってからは聖書の中にある、復活の記事も、奇跡や癒しの記事も、また御使い(天使)のことも実感をもって捕らえることができるようになりました。
マオさんのいうように、はじめに魂があり、それが肉体に入り人間の誕生となると私も思います。そして、その魂はおのおのこの地上で学ばなければならない宿題のようなものを携えてくるのだと思うのです。もしかして魂はその宿題を仕上げるのに最もふさわしい両親を選び、姉や兄を選び、土地や暮らし向きを選ぶのではないかと。また親の立場からすれば、親が地上での課題を果たす助けになるためにふさわしい子どもが神様からよこされるのだという気がします。相性の悪い親子であればそれなりに、そこに課題達成のために学ぶべきことがあるのではないでしょうか。
マオさんが言われるように、肉体を持っている間はわたしたちはそれに捕われ支配されて魂も見えないほどなのだけれど、肉体が滅びることで魂だけの存在に帰るのだと私も思います。 そうすると魂になった存在は自分のことも人のこともまた課題のこともとてもクリアに見えてくる。そういうクリアになった故人の魂と交流する場が葬儀であるかも知れないと思います。相変わらず、生きているものはすべてのものがおぼろげにしか見えませんが、それでも亡くなった方の凝縮されたクリアな魂にその人が生きていたときにはなかった近さでは触れることができるのではないでしょうか。意識するとしないとにかかわらず。 マオさんが前の書き込みで書いておられた「魂の認証の日」というのはこのことではないかと思います。
かつてこんな体験をしたことがあります。たいへん尊敬し、また影響を受けた牧師が急な病気でなくなりました。その知らせを受けたまさにその時、わたしは病室へとお送りするつもりで常緑樹の小枝を束ねてクリスマスのリースをこしらえている最中でした。ショックでした。ところが失ったという喪失感とは裏腹に、その方が非常な近さで感じられるのです。私に霊視能力があったらその方の姿も見えたのかも知れません。見えないながら近いと感じる。それは私自身の魂はその方の魂と会いまみえていたからではなかったでしょうか。しかし当時はそんなこと思ってもみませんでした。ただ不思議な気持ちでいただけです。
仏教徒である母は自分が死んだ後のお墓参りのことや、日々仏壇に供え物をしたり、念仏を唱えたりということが気にかかっているようなので、お母さんが死んだら私がお墓や仏壇の前に行かなくてもいつでも交流できるのよなんて冗談めかして言いますが、母はなんて愛情にない娘だと思うことだろうと思います。私としては冗談ではないのですが。そういう意味では御葬式の形もその後の祀り方もそれは生きている側、まだクリアに見えていない側に属するものではないかという気がしています。
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