たりたの日記
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掲示板にぞくまささんから宗教と葬儀についての質問と思いとが寄せられていた。書きたい気持ちが起こる。私は宗教学者でもなんでもないので、私の心で感じ取ったことしか書けないが、今出てこようとしている言葉を留めてみようと思う。 ぞくまささんは私が日記で書いた一連の教会での葬儀に関する文を読まれて、なぜ、宗教で故人を送るのだろうと思われたと冒頭に書かれていた。新聞やテレビでは、宗教とは無関係な葬儀をなさった有名人のことを知るがほとんどの方はなにがしらの宗教にのっとって葬儀を依頼するのではないだろうか。日頃、自分は無宗教だと言っている人も、また宗教と無関係に過ごしてきた人も、葬式ともなれば自分の家の宗教として○○宗のお寺やお坊さんにあるいは神主さんに葬儀を執り行ってもらうというのが日本におけるいわゆる常識だが、このことがらをよく考えてみるとなんとも奇妙だ。無宗教の方は人生の締めくくりともいえる葬儀の場で、その人が死に対してどんな考えを持っていたかということと無関係に一方的にその宗教の持つ死への考えを押し付けられることになるからである。また家族にしろ、列席者にしろ同じ生死観を共有しているのでなければ、お坊さんや神主さん、あるいは牧師の語る死や極楽浄土、また天国といったことに違和感を覚えることすらあれ、心をひとつにすることは難しい。人々はだからそのあたりのことには触れまいとし、できるだけ、生死観とか魂とかというものを脇へ押しやり、形だけを整えようとする。 ここで見えてくることは、私たちがものの本質のところは問題にせず、形のみを利用しようとする在り方だ。結婚式、宮参り、七五三、初詣、みな宗教的行事であるにもかかわらず、宗教など必要ないという多くの人々がこのことを当たり前のように行いそれに疑問さえ持たれない。
ところでぞくまささんの問いかけへと戻るが、そもそも人間の文化が形成されていくなかでまず葬式があったのではなく、まずは生死観があったのだと思う。人間は死んだらどうなるのか、この命をどのようなものと捕らえ、また死をどのようなものと捕らえるのか、それが宗教であり、その思想に基づいて葬儀の形が整えられていったのではないだろうか。その昔、ひとつの家族は、また地域社会は同じ生死観を共有していたから葬儀そのものが生きている者への教育の場でもあったと思う。葬儀を共に執り行うことによって、共有する生死観をより確かなものにしていったことだろう。でも今私たちはそのことを忘れている。葬儀に先んじて宗教が存在したということを。人間が生まれた時から死ぬことの意味を教えられ学びつつ大人になっていったということを。
こういう私はでは皆が何らかの宗教をもつべきだとここで主張したいのではない。神は存在しないとはっきり主張し、この命が終われば、自分というものは永遠に消滅するとする方の考えも尊重する。そしてそこから生まれてくる生死観も。わたしが主張したいことがあるとすれば、多くの人が、そして社会が「死」ということから甚だしく離れたところで生きているということである。しかし、「死」を問うことなしに「生」の意味を掴むことができるのだろうか。私たちの社会は子どもに死がどういうものか教えない。教えることができない。死を迎えている患者と医者は、また家族は共に死を準備しようとはしない。死を正面から見据えることができない。 あちらこちらで吹き出すように起きている残虐な殺人事件。こういった事件の背後に、生死観を失い、それを教育する力を失った社会の衰弱があると見るのは私のひとりよがりだろうか。
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