たりたの日記
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礼拝堂に人がいっぱいになる。60人ほどの高校生は座わるスぺースが無く、脇に立っている。葬儀に先立ってキャンドルを点す人がいない。通常は男性がこれを行うが、教会関係者はその場に私しかいない。女性でも構いませんからと牧師から言われ、慣れない役をやる。お辞儀をするのを忘れてしまった。
教会の葬儀は牧師による説教と讃美歌が中心だ。牧師は普通、死の悲しみではなく、天国への旅立ちを祝福する。讃美歌は「いつくしみ深き」とか「主よみもとに近づかん」といった静かだけれど、明るい旋律の歌が多い。その人の地上での生を祝福し、いよいよ時が満ちて天へ帰るその門出を祝うのだから。
人間的な見方ではその時が早すぎると思う。しかし、その人にとって最も時にかなった神から定められた時として受け入れようとする。当然、受け入れることなどできない。それでも、死をそのように受け止めようとするのがキリスト教の葬儀である。亡くなられた方は洗礼を受けることを望まれていたということだが、未信者の御主人にとっては、あるいは多くの未信者の参列者の方にはこのことがどのように受け止められるのだろう。きっと異質な印象を受けるのではないだろうか。でも何かの折りにふとこの葬儀のことが思い出されるかも知れない。私も御見送りしてきた方の葬儀の場面がふっと甦ることがある。その人のことがその時よりも分かってきた、近い感じがするということがある。
参列された方に棺に入れるためのお花を手渡す。焼香の代わりに献花をする。旅立ちだとしても、最後のお別れは悲しい。こんな悲しいことが日常の中に日々紛れているというのが人間の生なのだ。母を、妻を亡くしたことで人生が全く違ったものになるというのに、外にはいつもと変わらず車が行き交い、人々が歩いている。私とて礼拝堂を何もなかったかのように整え、来る日曜日の準備をしているのである。私のこの命の保証などどこにもないのに。
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