たりたの日記
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さばの切り身を多めに油を引いたフライパンで焼く。両面がかりっと焼けたところで、おろししょうがと醤油を合せたものを鍋のふちからじゅっと回しかける。その瞬間、遠い昔のひとつの光景が甦り、泣きたいような気持ちになった。
京都に住むみやさんは詩人だった。この人の詩を水俣病の支援運動の機関誌のなかで読んだ時、私はわっと泣き伏した。いきなり襲ってきた激しい感情は今でも説明がつかないが、彼女の痛みのようなものが私を刺したのだと思う。そしてその痛みの故に私は彼女に恋した。会ったこともない人だったのに。
その機関誌の詩を見せてくれたのはA(現在の夫)で、みやさんはAの友人の友人だった。私はその詩の感想を手紙に書き、訪ねたいと申し出たのだと思う。彼女のところには様々な人が出入りしているらしく、あっちこっちに連れていけなんて言わなければ泊めてあげるという返事をもらった。私が24歳、彼女は29だったと思う。夏だった。会ったこともない人に会うために京都へ行った。駅に黄色い自転車で迎えに来てくれることになっていた。初めて降り立った小さな駅、向こうから白いシャツに細身のジーンズ姿のみやさんが来た。古い作りの木造の借家、窓の下の座り机の上にはシャガールの画集が広げてあった。
いったい何を話したのか覚えていない。ただ彼女から手渡された詩の原稿を読みながら、私は声を上げて泣いた。何も話さずに泣いてばかりいる客をいぶかしがることもなく、ただ放っておいてくれた。そしてぽつんと「君が来てくれてよかったよ。」と言った。彼女はその頃、何冊ものゴッホの書簡集を読んでいてゴッホと並々ならぬ交感をしている様子だった。ゴッホの痛みを彼女が自分のこととして痛んでいるということが伝わってきた。 それからみやさんとわたしは近くのスーパーに夕食の買い物に行き、彼女は大きなさばをまるごと買った。台所で彼女が慣れた手つきで魚をおろすのを見ていた。冷蔵庫にはだし昆布を入れ、水を張った鍋が入れてあった。華奢で美しい彼女とはすぐには結びつかない生活感をそこに見た。 みやさんと水俣の魚を干す女たちが重なった。水俣の苦しみに身をよじるみやさんの優しさと哀しさがその台所に漂っていた。
翌日、その家を出る前、私はしばらくみやさんの肩を揉んだ。彼女からもらったものが大きくて私は何ひとつ返すものがなかった。幸せでいてほしい、祈るような気持ちで肩を揉んだ。 その時から10年ほどたって、偶然、「ぱんぱかぱん」という写真集に出会った。障害者の施設で生活する人達が琵琶湖の外周を歩く記録写真だった。その写真の上にみやさんの詩が流れていた。まぎれもなくみやさんの言葉で、その言葉は矢のようにまっすぐに私のある部分へ突き刺さった。10年前と同じだった。
あれからさらに10年がたった。私はまだ受けた矢の痛みを忘れられないでいる。そしてその痛みがどこから来るのか、まだ見えていない。いつか彼女に会うことがあるだろうか、その時には出会ったことの意味が分かるだろうか。
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