たりたの日記
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2001年06月29日(金) |
高橋たか子「放射する思い」 |
高橋たか子の「放射する思い」を読み終えた。 1997年に講談社から出版されているエッセイ集だ。聖三木図書館から借りたものだがこの本はまだ手に入れられるかも知れない。霊的書物として女子パウロ会から出版されている彼女の本の多くは再版されておらず、在庫もなく手に入れようがないが。
この本のことを心に止めておきたいので書き留めておこう。 エッセイはどれも興味深かったが、特に印象に残ったものは
○芸術は癒しうるか ○ その時その時の「時」 ○ 砂漠・砂漠・砂漠 ○ 人間の謎をめぐってー埴谷雄高への手紙 ○ いのちの河へ(遠藤周作・追悼) ○「魂の頂き」へ向かって
最後のエッセイ『「魂の頂き」へ向かって』を彼女はこのように書き出している。 <常に常に、自分と出会ってきた、と60年をふりかえって思う。 ただし、他人と出会うことによって、である。数えきれない、自分とは異なる他人たちとの出会いをとおし、自分と出会ってきた。>
彼女は小さい頃から、人に対して何かしらの違和感を感じ、出会う人との違和感をとおして、自分に目ざめ、他人に目ざめ、人間に目ざめ見つめることを、日々してきたという。そして、その出会いの貪欲さは、もしかしたら違和感の起こらない他人がどこかにいるのではないかという強烈な夢が彼女の一生を貫いていたからだとも。 自分の内から出てきた言葉のように共感がおこる。わたしもそうだった。これまでずっと。ただ彼女のように違和感に対してきちんと向かいあうことなく、違和感を感じると、条件反射的に自分の内を閉ざしてしまって、ほんとのわたしが相手にも見えなくしてしまうという癖がある。自分は違和感を覚えながら、どこかで相手にそれを感じさせないようにという意識が働いてしまうのだ。 エッセイの最後の部分はこのようにまとめられている。
< 人間嫌いだと言いながらも、こんなにまで私が人間にかかわってきたのはなぜだろう。その答えはキリスト者としての私に、今は分かっている。1980年代をフランスのキリスト者と共に暮した間、あちこちで「魂の頂き」とか「魂の切先」とか「魂の息」といった言葉に出会ったが、こんな類いの言葉が、私の抱いていた人間内部の光景をすっきり整合していった。― 誰も、他人との違和感のうちにじたばたと生きているけれども、そんな一人一人は、「魂の頂」ともいうべき先端で、神に触れているということ。それを信じない人も、それに気づかぬ人も、あらゆる人が。 たえず人間と出会うことをとおして、神と出会う1本道を歩いていたのだ、とまだ終わらぬらしい生の、一地点に立って、そう思う今日この頃である。>
出会うどんな人も、信じる宗教や主義主張とも関係なく、「魂の頂」で神に触れていると言い切る高橋たか子にわたしは安心のようなものを覚える。 私がここでこうして書くというのは、自分と出会うように、人と出会いたいからである。違和感に出会うと殻に閉じこもってしまう私を、表に出し、ここを訪れる人と出会おうとしているのである。そこに生まれるのが共感であればうれしいが、生まれるものが違和感や嫌悪感であっても怯むまいと自分に言い聞かせる。表面的な所ではなく、人と魂の頂きの部分で出会いたいと願っているのだ。
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