たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2001年07月01日(日) 今というこの瞬間の中で

今日の聖書日課 <ルカによる福音書 7章36節〜50節> を読んで

イエスが招かれたパリサイ人の家で食卓に着いた時だった。突然一人の女が入口から入って来ると、イエスの後ろにかけより、その足もとにひざまづいた。女は高価な香油の入った石膏のつぼを抱えていた。女は泣きながら涙でイエスの足を濡らすと、自分の長い髪の毛を掴み、それでイエスの足をぬぐった。それからイエスの足に接吻すると、持っていた香油をイエスの足に塗った。辺りに香油の香りが広がっていただろう。イエスは動じることなく、静かに女を見ていただろう。女は香油を塗る間も泣き止まなかったにちがいない。これから始まろうとしている夕食の、ひとつの秩序を女の行為が破った。
女は罪ある女として周りの人間からさげすまれている者だった。この女の行為はイエスを招いたシモンにはひどく不快だったに違いない。神の掟を守る、正しく学問のあるシモンは心の中でつぶやく。イエスほどの人がこの女がどんな女か見抜けないのだろうか、こんな卑しく汚らしい女に自分の足を触らせるなんてと。

イエスには深く分かっていた。その女がどういう女なのか、なぜこのように泣きながら自分の足を涙で拭うのか、そうしてシモンが心の内で何を考えているかも。
イエスはシモンに「あなたに言うことがある。」といい、例え話をするのだ。ある金持ちに二人の人が金を借りたが二人とも返すことができず、金持ちから借金を帳消しにしてもらった。一人はもう一人よりはるかに多額の金を借りていた。その場合どちらが多く金持ちを愛するかと問う。「多くゆるしてもらったほうだと思います。」と答えたシモンに「あなたの判断は正しい」といい、さらに、その女とシモンのイエスに対する愛の大きさの違いを示され、女に「あなたの罪はゆるされた。」というのである。

社会はそこにルールを定め、そのルールから外れるものを許さない。そういった人間を罪人と定め排斥する。判断の基準となるのはその人間が過ぎた時間の中でなしたこと。しかし、イエスはいつも社会の正しさや物差からではなく、過去にその人間がなしたことからではなく、その人のその瞬間の魂の状態を読み取り判断を下す。

過去において女は神をも人をも裏切る罪を犯したのだろう。彼女の涙はそのような自分への目覚めではなかっただろうか。イエスと出会うことで彼女は自分の飢え渇きに、水が注がれるのを感じ、これまでの虚無の海の中から引き上げられるのを感じていたのだろうという気がする。泣きながら彼女は自分の内に巣食う黒いものを洗い流していたのだろう。それは後悔の涙でもあり、感謝の涙でもあり、何より自分を救い出してくれたイエスを愛する故の涙だったのだという気がする。

彼女の心に起こった変化こそ、イエスが人々に求めていたものではなかっただろうか。
十字架の上にあった時、隣で十字架にかけられている強盗の心に起こった変化をイエスは見逃すことなく、「今日あなたは私とともにパラダイスにあるでしょう。」と言ったことが甦る。わたしは今、あの罪の女のように、パラダイスへ伴うと言われた強盗のようにイエスに向かって心を開いているか。そのことが問はれる。
イエスの目は今この瞬間の私の魂へと向けられている。瞬間、過去でも未来でもない、ただこの今という時の中でイエスは私と出会おうとしていらっしゃる。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加