たりたの日記
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2001年06月28日(木) 高橋たか子との出会い

しばらく間が空いたが、また高橋たか子を読んでいる。読む度にそこに「自分の場所」といった安らぎを受ける。そこにある空気が好きだ。甘さがなく、しんとしている。それでいて火のようだ。熱くない火。

そういえば、高橋たか子を読み始めたのは去年の今頃だった。読書の習慣からすっかり離れてしまっていて、特に文学書は随分手にしていなかったのに
どうした具合か、小説が、それも女流作家のものが読みたいという気になった。子宮を摘出した直後、まだ家でごろごろしている時期だった。子宮を失うということが女性としての私にどのような変化をもたらしているのか確かめたい気持ちもあったのだろうか、それともホルモンの変化による嗜好の変化だったのだろうか。確かに変化は感じていた。どうも、体のレベルでは母というところからスパンとはずされ、私は母となる化学変化を起こす前の私に戻ったような感覚を感じていた。女性というところからも外れてしまうのではないかという漠然とした不安があったのに、実際はそうではなくて、産む性というところから解放されることで、なにか伸びやかになった気がしていた。それまで敬遠していた女流作家の小説を興味の趣くままに次々と読んでいった。どれもおもしろく読めた。自分の嗜好の変化が何よりおもしろかった。

その中に高橋たか子の「誘惑者」があったのである。友人2人の自殺を助ける1人の女性が主人公だった。人間の中に巣食う虚無とも悪魔的ともいえる甘さのない世界だった。なぜか惹かれた。作品の底を流れる人間とはという問いかけに触れた。どこか自分と無関係ではないものをそこに感じた。しかしながらこの暗さ、神が存在しない果てしない闇。
それから図書館で彼女の書いたものを片っ端から読んでいった。読み始めて間も無い時期に、彼女がある時期、小説家とての自分を捨てて、1人でフランスに住み、10年ほど他との接触を絶った観想生活をした人であることを知った。以前に「意識と存在の謎」ーある宗教者との対話という本を講談社の新書で読んだことを思い出し、あの作者は高橋たか子であったと、別の人のように思っていた作者が同一の人であったことに気づく。それにしてもあまりに違う。「意識と存在の謎」の中で私が感じ取ったものは、光だった。それもぼんやりしたものではなく、人間の存在を照らし出す光のことがはっきりした輪郭で語られていた。
闇から光へ。彼女の書いたものがある時を境に全く違ったものになっているのは、彼女の内的変化をそのままに表わしているからだということが分かり、彼女に起こった内的変化を知るべく、観想生活に至るまでの手記やそこから生まれた作品を読んでいった。彼女の内的変化を知った後で、彼女が信仰を持つ以前に書いた作品を読むと、そこにはそこへと辿り着くための道行きのようなもの、準備のようなものが見えてくる。作者にも読者にもそのことは分からなかったが通り過ぎたところから振り返ってみると、彼女の書いたものの中に確かに出会いの予言を読み取ることができるのである。
作者自らがそのことを、自選小説集の解説のなかに書いていて興味深い。


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