たりたの日記
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2001年06月19日(火) 『深い河』創作日記

五年前に遠藤周作氏の小説「深い河」を読んでいた。深い印象の残る本だった。登場する人物はそれぞれに探し物をしていた。分かりたいことがあった。自分はどこへ行くのか、神はどこにいるのか、どこかで分かっているようで、けれどはっきりと手の中に掴むことはできない。よりはっきりと分かりたいと手探りで進む。わたしが遠藤周作の作品に引かれるのは、この彼の問いかけだ。彼は自分を「分かった」というところに置いていない。そこに見えるのは痛々しいほどに真摯な求道者の姿だ。しかし、この最後の作品にわたしはどこかで結論を期待していたような気がする。わたしの「分からない」ことを「分かるもの」へと変えて欲しいという哀願にも似た気持ちがあった。そこへ早く辿り着きたいと先を急いで読んだように思う。そして最後まで読んだが、わたしの「分からない」はさらに深まり何か広いところに放り出される感覚を持った。自分で見つけなければならないという、そこは振り出しだった。
この創作日記は遠藤氏が亡くなった後に出てきたもので、作品がまだ形にならないころからの産みの苦しみが綴られている。病に冒され、自分はもう長くはないと知りつつ、書くということの使命感から自分に鞭打って苦しい作業を続けたたことが伺われる。氏が偶然に基督教神学者ヒックの書いた『宗教多元主義』に出会ったところではっとした。氏はその本との出会いを「これは偶然というより私の意識下が探り求めていたものがその本を呼んだと言うべきであろう、、、」と書いているが、これはそのまま、今この本を手にしている私に言えることであった。このようにして、意識下が探り求めていることに、私もまた出会っていくのである。

日記の最後に「宗教の根本にあるもの」と題されたエッセイが載せられていた。この文については何の説明もない。しかし、そこに私はひとつの結論を読み取った。それは「深い河」を読みながら、わたしが辿り着きたいと願ったところであった。小説の中で氏は結び目を作らなかったが、この創作日記の中で、氏がこの小説を書くことによって辿り着いた彼自身の立っている場所を明らかにしたのだと思う。

氏が辿り着いたところに私も留まり、「分かった」と言いたい誘惑にかられる。しかし、それは氏が苦しい闘いの果てに辿りついたところ、わたしはわたしで歩み、自分の歩みの中から見つけ出さなければならないのだと思う。


たりたくみ |MAILHomePage

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