たりたの日記
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2001年06月17日(日) 月夜の田んぼで

私が小さかった頃、小さな町の小さな商店街は、夕方の6時ともなれば店じまいをするようだったが、夏の間は土曜日ごとに「夜市」というものがあり、夜遅くまで、町のにぎわいが続いた。今でもヨイチという言葉の響きは丸い大きな金だらいの中の金魚やヨーヨー、赤や緑のかき氷りの映像を伴っている。

高台にある町営住宅から商店街までは徒歩でおよそ30分ほどの道のりであった。町のにぎわいをめざして父と母と弟たちと歩き始めるのだが、いつも家の外に出ると、夜の闇の深さにどきりとした。昼間と全く違った世界がそこにあるということになかなか慣れなかった。家族いっしょに行くのだし、時には近所の友だちや家族といっしょに歩いていくこともあるのだが、どこか心細い。急な坂の脇は墓場になっていて、そちらは見ないように歩いていくと坂の下には川が流れていている。そこに着くと、遠くから聞こえていたカエルの鳴き声が無気味なほど大きく響いているのである。川辺に添って歩き始める時、父はきまって「月夜の田んぼで」という歌を歌った。

月夜の田んぼで、ころろ、ころろ、ころろころころ泣く笛は
あれはね、あれはね、あれはカエルの銀の笛、ささ銀の笛

橋を渡って、向こうに町明かりが見えるまで、この歌を繰り返しみんなで歌った。いつの間にか心細さも消え、明かりが近づくにつれて、胸ははちきれそうな期待でいっぱいになっていった。この歌は父が歌うのを聞いただけなので、実際こういう歌詞なのか、そもそもこんな歌が世の中にあったかどうかも知らないが、今でも人通りのない夜の田舎道を歩くと、自然にこの歌が口をついて出てくる。

「月夜のたんぼ」の歌に限らず、父はその場所や季節に合わせてよく歌を歌った。「おお牧場は緑」「草競馬」「おおスザンナ」「赤とんぼ」「あわて床屋」「春になれば」などの歌は父の声といっしょに思い出す。父は何の為に、どこへ向かって歌っていたのだろうとふと思った。カラオケで歌う自己陶酔的な歌ではなかったし、人に聞かせようとして歌っている風でもなかった。ふっと口をついて出てくる歌、父の思いをどこかへ向かって放つための歌。どこへか、自分でも、人でもないどこか、どこか遥かなところ。父の歌は祈りのようだったと、新しい発見のように思い当たる。そして私は父の歌から何よりも向ける眼差しの方向を学んだのではなかったかと思った。

痴呆が進み、父のできることはひとつ、またひとつと少なくなっていった。まず、絵が描けなくなった。次ぎに文字が書けなくなり、さらに読めなくなった。ところが3年ほ前、母の勧めで父の日にハーモニカをプレゼントしたところ、父はそれを意外なほど達者に吹いた。楽譜もないのに、いろんな曲を次から次ぎに吹いた。良い音色で、味わい深い吹き方だった。父がハーモニカを吹いていたのはわたしが学校へ上がる前までのことだったと思う。なくなっていく記憶のなかで歌だけはそのままの形で残っているのだろうか、それとも父の古い記憶の底の方から忘れていたはずの歌が顕われてくるのだろうか、不思議だった。

昨日の父の日、母は病院に父を訪ねた。子供たちから届いたプレゼントの食べ物とハーモニカを持って。わたしは父のことを書いたここ何日かの話しを、プリントアウトして、小包の中に入れていた。母に読んでもらうためである。父のことは考えてもみなかったが、母はそのプリントしたものを父のところへ持っていき声に出して読んだのだそうだ。父は読む間、じっと聞いていて、おかしいところでは笑い、私がしかられる場面では顔を曇らせたと驚いて報告してくれた。一瞬、記憶が繋がったのではないかと母は言う。ハーモニカもいつもになく楽し気に吹いたということだった。父の症状が良くなるとは思えない。脳の萎縮は進むばかりだからだ。けれど、まだ言葉を届けられること、父に伝えられることを知りうれしかった。この1週間、こうして父のことを書くことができてほんとに良かったと思っている。



たりたくみ |MAILHomePage

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