たりたの日記
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私が小学校4年生から中学1年までの間、父は私たちの住む小さな町から汽車で3時間ほどのところの隣の県にある少年鑑別所に単身赴任していた。母が地元の小学校に勤務していたからだ。まだ2歳の弟には手がかかった。弟が保育所に上がる前は近所の散髪屋の若い夫婦のところに預けていたが、少し大きくなり、保育所に行く頃になると、行きは私が学校の行きがけに保育所へ連れて行き、帰りはわたしより2つ下の弟が学校帰りに弟を迎えに行き、連れて帰った。小さな弟は遠慮なく我々を手こずらせ、私も、すぐ下の弟も、あの手この手をつかって、機嫌をとったり、だましたりしながら、それはけっこう骨のおれる仕事だった。でも、一番大変だったの母だったろう。父が単身赴任の間は忙しくて、朝食をとる時間もなかったらしい。我が家に訪れた初めての試練の時期だったのかも知れない。そういう日々であったから、週末に父がお土産をたくさん抱えて帰ってくるのが待たれた。36色の色鉛筆セットや、流行っていたポップスのシングル版のレコードなど、小さな町には売っていないような珍しいものがあって、舞い上がった。小さい弟は次々に新しいおもちゃが増えていった。時代も、豊かな時代になりつつあったのだ。
クリスマスも間近に迫った週末、父はとりわけ大きな包みを抱えて帰ってきた。帰ってくるなり、ケーキをつくるぞという。クリスマスの時期になると、パン屋や駄菓子屋の店先に並ぶ、夢のような食べ物。あのケーキ。あんなのが作れるわけはないとはじめから疑ってかかった。荷物の一つは新品のピース天火だった。ガスコンロの上にのせて使う、旧式のオーブンである。もう一つの包みは小麦粉や大きな固まりの無塩バター、チョコレートの固まり、それに、絞り出しの道具や銀色の小さいつぶ、といったケーキつくりの材料だった。同じ官舎に住む奥さん達がこの時期になると、みんなで集まり、ケーキつくりをし、それを同じ職場の人達にプレゼントするらしく、父はそこへ出向いていって、ケーキつくりの手ほどきを受けたらしかった。きっと父は驚いたのだ。それでその感激を私たちに伝えたいと思ったに違いない。
父は細かく書き込んだメモを見ながら、私と弟にあれこれと指図した。小麦粉を震いでふるったりするのはまるでままごとのようだった。スポンジケーキが焼ける時はお菓子屋さんの店先のような甘い匂いがしてきて驚いた。一番苦労したのはバタークリームを作るところだった。バターと砂糖と卵を泡立器でかきまわすとクリームになると父は言うのだが、交代でかき混ぜても、腕が痛くなるばかりで、少しもクリームらしくならない。そればかりか、分離してしまって、もうだめだなと私はさっさと見切りを付けて遊んでいた。父は孤軍奮闘し、その甲斐あってやがてボールの中味はみごとにクリームに変わっていた。指をつっこんでなめてみると、とろーりとしたケーキのクリームになっていた。うっとりとするおいしさだった。さて、いよいよアーティストの本領が発揮できる時となる。父はケーキにクリームを塗り付け、そのクリームをいくつかに分け。赤と緑の食紅でクリームに色を付けた。それを、絞り出しの金具が付いた布の袋に入れると、白いケーキの上に、赤い花びらのばらを作り始めた。バラそっくりだと思った。緑のクリームで葉っぱも描き、仕上げに銀色の粒を振りかけた。お菓子屋の店先に飾られているケーキが目の前に顕われ、それは夢のようだった。 夕方までに、ケーキは3つ出来上がった。父の言い付けでそのケーキを仲良しのいるお向かいの2軒の家に持っていった。そこの家の人たちが驚き、そして喜んだのはいうまでもない。
わたしもケーキをあげた友だちの家の人も、その出来事はよく覚えていて、時々話題にのぼったが、父はそんなことがあったかなあとすっかり忘れていた。まだ痴呆の始まる前のことである。私は主婦となり、母となって、誕生日やクリスマスにはケーキを焼き、パンなども焼いた。春には子供といっしょによもぎをつみ、ヨモギだんごを作った。そんな時、子供の時のケーキつくりのことを思い出していた。わたしはきっと忘れても、子供達は憶えているんだろうなあと自己満足に浸っていた。 少し前のこと、「小さい頃、よもぎだんご作ったよね。」と息子たちに言うと、えっ、そんなことあったけ、ぜんぜん憶えてないよ、ときた。これは娘じゃなくて、息子だから?父はたった一回のケーキづくりをこれほど有り難がられているというのに、我が家の息子達ときたら、何度もその恩恵にあづかっているというのにさっぱり忘れてしまっている。これでは割りが合わない。
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