たりたの日記
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2001年06月14日(木) 切腹の記

今のようなホームビデオがまだなかった頃、8ミリカメラが売り出された。一本のテープで、3分とか5分しか取れず、見るのも映画館のように部屋を真っ暗にしなければならなず、また現像には時間もお金もかかったようだった。そのころカメラにかなり入れ込み、現像から引き延ばしまで自分でやっていた父は、 8ミリが出るや否や即買った。月賦だとなんだって買えるというのが父の流儀であった。このテープも段ボール箱に2、3箱はあったからたくさん撮っては現像に出したに違いない。

あの頃は時々、お客があった。父の仕事仲間や、遠くからの親戚が訪ねてきたのだったと思うが、そこで映写会となった。8ミリカメラが来る前は父は私に、習っている「モダンバレー」を踊らせた。トーテムポールの陰で泣くインディアンの娘の踊りやら、お母さんアヒルが5羽のアヒルと洗濯をする踊りを客の前で踊らされるはめになった。わたしひとりが拍手喝采を浴びるのはそれほどいやではなかったが、みんなといっしょに見る側に回れる映写会にほっとしていた。

私たち子どもの記録フィルムのようなものが主流だったことだと思うが、ひとつだけ特別なフィルムがありそれは映写会の圧巻でもあった。
それは「切腹の記」というタイトルから始まる、父が十二指腸潰瘍の手術をした際の記録フィルムだ。本人はお腹を切られているわけだから、8ミリを回しているのは父以外の人間ということになる。父は、病院の院長に頼み込み、執刀しない医師が8ミリを回すということになったらしい。最初にタイトルが入るように父は厚紙に得意なレタリングでりっぱなタイトル文字を書いたものをあらかじめ用意し、そこから始めてもらうようにお願いしてから手術室に入ったということだった。胃の3分の2を切り取るという大手術に母はかなり心配していたのに、父のこの余裕。手術の後、病院を訪ねた時、父が随分楽しそうに見えて、また長い間汽車に乗って、家に帰るよりはここにいたいと思ったくらいだった。しかし、手術の記録フィルムなど頼む方も、頼む方だが、許可した院長も、院長だ。そんな突拍子もない個人的なリクエストがまかり通ったのんびりした時代だったのだろう。

さて私たち家族はその「切腹の記」をその後、何度も見るはめになる。父は得意そうだったし、わたしも見る度に、なぜかわくわくした。でもお客はどうだっただろう。夕食の後で、そんなものを見せられて気持ちが悪くなった人だっていたかも知れない。この家族はどうなっているのだろうと訝られたとしてもしかたない。このことがかなり風変わりなことであったと、大人になってから気が付いた、弟と話している時である。あの時はこんなものだと過ごしていたけど、我々はかなり変わった父親の元で育ったらしいと思い当たったのだ。

そのフィルムの教育的効果というものがあっただろうか。私は小学校5年生の時のフナの解剖も、中学1年の時のカエルの解剖も目を輝かせて、気持ち悪がる子たちを尻目に率先してやったような記憶がある。人体の模型や図鑑を眺めるのが好きだったし、数学がだめな割には、生物のテストはいつもよかった。扁桃腺の手術に始まり、4度も切ったり縫ったりをやったが、恐怖心とは無縁だった。弟も自分の体に対して何か突き放したようなところがある。これが父親譲りの性格なのか、あるいは繰り返し見させられた「切腹の記」に寄るところなのかは分からない。


たりたくみ |MAILHomePage

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