たりたの日記
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学校から帰ってくると、父はよく油絵を描いていた。仕事がら3日に一度は当直明けの非番と言われる日があったのだ。その当時、私たちは小高い丘にいくつもの赤い屋根が並ぶ町営住宅に住んでいた。小さな家だったから茶の間は確か四畳半。父はちゃぶ台に画材を並べた。様々な色のラベルがついた油絵えのぐ、何かよい匂いのする液が入った筆洗い、えのぐと油にまみれたタオル、そして柄の長い大小の筆がたくさん。イーゼルがその脇にあり、描きかけのキャンバスが立て掛けてあった。アマリリスや鉄砲ゆりのこともあったし、どこかの風景のこともあった。絵が時間とともに、ずんずん本物そっくりになっていくのはいつ見ても不思議な気持ちになった。 絵を描いている父は機嫌がよかったからだろうか、それとも絵に熱中してこちらへ注意が向かわないのがよかったのだろうか、こちらに背中を向けて絵を描いている父を見ると何か安心した。 そんな時に遊びに来た友だちが「おじちゃん、うまーい」と感歎の声をあげると、私はうれしくてにんまりとし、父もまた得意気だった。たいていの友だちは珍しがって、しばらく父が描く様子を眺め、その後、絵の具やキャンバスの脇にわずかに空いた空間でお人形さんごっこやおみせやさんごっこをして遊んだ。
父は随分たくさんの絵を描いたはずだが、今、実家に残っている絵はあまりない。時間をかけてていねいに描き込んだ絵も、人から欲しいといわれると、さっさとあげたらしいかった。 一度、中央で開かれた展覧会に、泊まり込んで描いた山の絵を出品したところ、それを欲しいという方が現れ、譲って欲しいという旨の手紙が送られてきた。父はその絵を展覧会の会場からその人が持って帰れるよう手続きを取ったた。父が絵は差し上げるというのでと、その方から、キャンバスや絵の具などがたくさん送られてきたらしかった。親戚の人や近所の人のお祝い事の時に記念だといってあげたり、役所や公民館に寄贈したりもしていた。 父が記憶を失い始めた頃、いろんな人に絵を描いてあげると約束したのに、本人はすっかり忘れていて、母が絵の約束をしている人とたまたま話しをし、絵はまだですかと言われてはあわてた。父は描く、描くと言ってはキャンバスに向かうが長続きせず、描きかけのキャンバスがいまだに一部屋を占領している。父にとって絵を描くというのはどういうことだったのだろうか。母は、父は絵を描いて、それを人にあげるのが楽しみだったんだろうねと言う。それにしても、父の描いたたくさんの絵は今どこにどうしているのだろう。時々、知っている方々から、父の絵をどこそこの施設で見かけたと教えていただく。母といつか父の絵を訪ねる旅をしようなどと話している。
我が家に一枚だけ、父の描いた油絵がある。私たちがニュージャージーに滞在していた頃母といっしょに訪ねてきて、その時近くの公園で描いたものだ。昔、父からもらって持っていたわたしの粗末な画材で、2時間あまりで仕上げたものだった。もう記憶障害が始まっていたから、父が無事描き上げられるようにと祈るような気持ちだった。父が公園で描いている間、邪魔にならないようにと母と私は5歳の次男を遊ばせながら少し離れたところから父を見ていた。父の絵を横目で見ながらウオーキングしている人たちが通り過ぎていく。父の絵を見てからこちらに向かって来るカップルを見ていた次男は彼等に駆け寄ると何か話しかけた。何て言ったのと聞くと、「絵をかいてるのはぼくのおじいちゃんだよって教えてあげたの」と得意気であった。その絵はその時の気分や空気を閉じ込めていて、私たちには思い出深い。
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