たりたの日記
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3人兄弟のうちでわたしが一番しかられた。なぜだろう。まずは長女だったから、次ぎに要領が悪かったから、さらに生意気であり楯突いたから、でも一番の理由は私が一番父に似ていたからだろうと思う。 しかり方は大きく2つに分かれる。まずは激怒型、これはもう恐ろしいの一言。2段ベッドから引きずり下ろされるし、玄関に投げ飛ばされたりと災難であった。荒くれ者の非行少年たちを日々相手にしているのである。あの時の恐怖を思えばわたしはどんなことにも勇敢に立ち向かっていけるような気がする。もうひとつは教育型、これには家族会議を通して民主主義的解決を計ったものや、テープレコーダーで録音しながらのカウンセリング調のものもあり、こちらも父の仕事の影響を写し出しており、なかなか手も込んでいた。 怖かったことはあまり思い出したくないから、後者の方を取り上げるとしよう。
夕食の後、「今日は家族会議を開く」と、父が宣言すると、みな緊張した。家族会議はどういうわけか、ちゃぶだいのある部屋ではなく、黒く光ってものものしい応接台のある部屋でなされた。家族会議とタイトルの書かれた帳面があり、記録が取られた。といっても参加者は父と母と2歳下の弟と、私、後は発言権のない赤ん坊の弟だけである。議題は「どうして兄弟喧嘩をなくすか」、とか「家の仕事をなまけずにやるためのきまり」とか、色々あったと思うが、今考えても笑ってしまう家族会議の模様があり、その記憶は鮮明だ。
議題は「私の何でもなくしてしまう癖にどう対処するか」というものだった。その日わたしはお祭りで使うためにもらったおこずかいをほとんど何も買わないうちにすっかり落としてしまっていた。年に一度の神社のお祭りで3日間続く。3日間のおこづかいは児童会の話し合いで決められ、それ以上持っていたり、たくさん買ったりすると学級会で追求されるしくみになっていた。いったいいくらだったのだろう。300円くらいではなかったろうか、金魚すくいが5円か10円だったから。わたしがお金をなくしたのは祭りの初日だった。児童会で決められたおこづかいを全額おとしたのであるから、明日もその次ぎの日も続くお祭りで私は何も買えなくなるというはめに陥った。母にいきさつを言い、お祭りのおこづかいを再度要求し、母が判断に迷い、父に告げ、それで家族会議の運びとなったのだろう。
この日はまずは尋問から始まった。何をしていて落としたのか、なぜ落としたのか、すぐに気が付かなかったのはどうしてか。でも聞かれても答えようがないのである。知らないうちに手から抜けていた。何かに心を奪われると手許が弛んでしまうらしく、わたしはこれまでも学校の行き帰りになまざまなものをなくしていた。 議論はお金を落としたのだから、学校のきまりにしたがってそれ以上のお金はもらえないとするか、落とした分は使わなかったのだから、その分またもらえるかというものだった。弟が私の味方をしたのか、あくまで決まりを守るべきだと主張したのか覚えていないが、議論の末、父は私になくした分の半額を与えるという決定を下した。少し残念ではあったが、ぜんぜんないよりはましだ。でも残り2日のお祭りは、景気よくお金を使う、弟や友だちを横目で眺め、あれもだめ、これもだめと買い控えなくてはならず、うれしさは半減した。
この父の教育は果たして成果があったのだろうか、その後、私はいっときは物を落としたり忘れたりすることは少なくなったのかも知れないが、今でも相変わらず、傘を買っては置き忘れ、ハンカチを買ってはどこかへ落としている。父は憂えたが、わたしは自分の子どもをどこかへ置き忘れることもなく、どうやら無事に育てた。しかし、この私の紛失ぐせは実は父親ゆずりなのである。父は毎朝、鍵は、眼鏡はと母や子供達に捜させていた。我が次男が小学校に通うようになって、彼が学校から持ち帰らねばならぬたったひとつの宿題帳を毎日のように忘れ、学校へ取に戻らねばならなかった時、家族会議を開こうとはしなかった。しかたない、血だものと潔くあきらめ、彼の忘れ物取りに付き合うのだった。
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