たりたの日記
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来週の日曜日は父の日だ。この機会にしばらく、父のことを書いてみようと思う。
現在、父は73歳、60歳の時にアルツハイマーの兆候が出てから、この病気にしてはゆっくりではあったが、記憶をなくしていった。2年前くらいから家族の手に負えなくなり、地域の社会福祉司や、精神科の医者の勧めもあり、今は専門の病院に入院して治療を受けながら生活している。 今では母のことも、私のことも分からないが、母が差し入れをする父の好物はおいしい、と言って食べるし、面会の時、気分が向けば、母が持っていったハーモニカでじょうずに、童謡や唱歌などを吹く。夫としての、また父親としての自分はすっかりどこかへ置いてきてしまったが、先生の自分はまだ捨て難いのか、病院にいってみると、父の職業は知らないはずの患者さんや病院のスタッフの方々が父を先生と呼んでいるのに驚いた。病院での生活のなかでは先生になりきってしまい、生徒の「指導」に余念が無いのであろう。父は少年院の法務教官だった。
他県に住む、3人の子どもが時々訪ねたり、滞在したりする他は母が1人で世話をしていたが、もともと激情型の人だから、わずかなきっかけでも機嫌をそこね、爆発がおこった。体は元気であるから、表に飛び出し、全力で失踪された時はわたしも追いつけなかった。けれど、母はなにがつらいといって、父を知る町の人たちに父のそういう姿をさらすことだった。 父は少年院の仕事の他には公民館で油絵の指導をしていたし、父の書いた町の風景画がしばらく町の公報紙の表紙になっていた。ふらりと入った病院の待ち合い室に父のサインのある油絵がかかっていたこともあった。今でも、桜の名所になっているお寺の入り口には父の描いた観光案内版がある。古くからいる町の人はみな父のことを知っている。だから父の行動がだんだんと目に付くようになると、母は町で行き違う人がひそひそと父のうわさ話しをしているようでつらいとこぼしていた。
父のことはすっかり町の人の知れるところとなり、父も回りの好奇な視線や憐れみの視線にかき乱されることなく、同じような境遇の人の中で、安全を保証されながら生活できる今の生活に適応している。 老人は家族が世話をして地域の中ですごすのがいちばんだと思う。母も遠くで暮す3人の子どもたちもそうしていないことに痛みを持つ。しかし、一瞬一瞬、何が起こるか分からないという事体を抱えながら暮すのは看られる方も看る方も大変苦しむということを経験した。すべてのものが凶器になり得、どんなことも感情の爆発へとつながるからである。父のすごす明るく広々とした病院はどこにも私物がない。自分のものと他人のものとの区別がつかない痴呆症の人達にとって、私物はたとえ、スリッパひとつでも、パニックの種になるからである。また、病院のドアはどこでも鍵がかかっており、スタッフの人しか開けられないことになっている。このことは老健などの施設の一時預かりやデイケアに居る時、脱走に次ぐ、脱走で、施設の人をてんてこ舞いさせ、またタクシーを使って捜しまわった経験をしている家族にとってはありがたいことなのである。ふらふらと外に出て、交通事故にあったり、とんでもないところに行ってしまって見つけられないという恐怖にさらされることはない。少なくとも命は守られていると安心して眠ることができる。
しかし、一方で、そんな父のために何もできない、何ひとつしていないという無念さがつきまとう。せめて、少しでも多くの父の過ごしてきた時間を思い出し、それを文に起こしたいと思っていた。思いつつ実現できないでいたが今なら書けそうな気がする。わたしの記憶をたどり、そこに生きている父を文章の中で甦らせたいと思う。
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