たりたの日記
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相変わらず、佐野洋子ばかり読んでいるのだが、今読んでいるエッセイは10年以上も前に書かれたものばかりで、笑い転げながらも、ああ、この人の日常はもうこれとは違うんだと思う。思いながら、いったい今どういうふうにこの続きを生きているのだろうと知りたかった。もうエッセイも書いていないようだし、絵本も新しいの見ないけど、ちゃんと食べていっているのかなあとか、どうも五十代で、めちゃくちゃ好きな男に出会っているのだけれど、その若い(と、私は疑わなかった)恋人とは別れていないだろうかとか、最愛の息子はもう結婚し、お嫁さんなんかとはどうなのだろう。孫がいたりもするのだろうかと想像は広がっていた。 昨日のこと、Aがどこかの古本屋からまた新たな文庫本を見つけてきて、私たちはもう夕食の支度をする時間だというのに、手に入れた本を家事や子どもらにじゃまされずに読みたいばかりに、珈琲館で油を売っていた。わたしは「入場料440円ドリンクつき」という谷川俊太郎と佐野洋子が二人で書いているものを読み始めた。これって何か変、二人の息が合い過ぎている。もともと開放的な彼女はさらに解放的、色っぽさは解放が極まるところにも立ちのぼることもあるのだ。私は何か胸騒ぎを覚えて、文庫本の最後のところを開いて解説を読んだ。 えっ!なに!佐野洋子は谷川俊太郎と結婚していたの?それも10年も前に、、、。それじゃ、あの若い恋人は若くない谷川俊太郎のことだったんだ。 なんという浦島太郎だろう。自称物知りのAもそのことを知らなかった。そういえば、我々はその辺りは日本におらず、新聞の見出しのニュースさえも知らないままに過ごしていた。実際そのころ流行った歌にしろTV番組にしろ、スコンと抜けている。 谷川俊太郎の特に児童詩集とはもうわたしのそして子どもたちの血となり肉となっているほどに深くかかわってきた。英語をやりたいと思ったのも、今仕事で幼児やお母さんにマザーグ−スを教えたり、それで遊んだりしているのも、谷川さんの訳した マザーグ−スに寄る所が大きい。いつも特別な位置にある詩人だったのだ。私にとって2人は自分の一部でもあったわけで、そんな2人がこの10年間ずっと夫婦やってきたなんて、、、。 それにしてもなぜわたしはこのことに過剰に反応するのだろうか、、、。 谷川俊太郎も、佐野洋子も、その個性故に、一匹狼で、その孤独とか潔さが好きな要素のひとつだった。二人ともそれぞれの少年と少女の部分からしてぴったしと近い。それぞれが長い間捜していたものにやっと出会ったのではないかしら。詩もエッセイももう書かなくてもよいほどに。
「幸福な人は詩を書くな」いつか読んだ本のタイトルが浮かんできた。
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