たりたの日記
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2001年05月12日(土) 祈りの夕べ

今日は教会で「祈りと讃美のつどいの夕べ」があった。
月に一度の夜の集まりで、今年から始めたものだが、役員が一人づつ、自分の個性で、好きなようにその集いのリードをすることになった。ギターの伴奏でゴスペルフォークを歌ってもよし、詩を朗読してもよし、いろいろなスタイルの祈りの時を創造しようということになった。
今夜はわたしの担当だったので、フランスのテぜー共同体で行われる祈りと讃美を取り入れてやってみることにした。

礼拝堂の入り口に小さなテーブルを置き、そこに火をともした円筒形のキャンドルをいくつも並べて置いておく。みながそろったところで、ひとりがひとりキャンドルを手にし、「グロリア」の短いフレーズの讃美歌を繰り返しくちづさみながら、礼拝堂に入り、前方まで進み、自分の好きなところへキャンドルを置く。
部屋は暗くろうそくの明かりだけである。その中で聖書を朗読し、それに続いて、「主に感謝しよう」という短いフレーズの讃美歌をアカペラで歌う。それにみなが和し、短いそのフレーズを繰り返し歌う。テゼーの讃美歌は、繰り返すほどに美しい、歌うための歌ではなく、聞かせるための歌ではない。祈りのための歌。歌うごとに、より深く、自分の内へと沈潜するための歌だからだ。
歌いながら、今感謝したいことについて思いをとめる。そして、歌い終えた後、それぞれが感謝に感じることを話す。仕事のこと、人との出会いのこと、健康のこと、今いただいている命のこと、どの感謝も心に響く。その後、それぞれに抱えている課題でみなに祈ってもらいたいことを出し合う。病気の親のこと、家族のこと、それぞれに重い現実があることを知る。
それから、2人、あるいは3人の小さなグループになってそれぞれ祈リ合う。若者、壮年、初老の者、外国人、男、女、求道者、信徒、牧師、それぞれに違う空間に生き、異なる現実を抱えている者たちが、ともに祈りを合わせる。
祈りとは神の前に心をさらす事だと思う。
そして、ただただ自分を開いていく行為だと思う。
10分くらいを予想していたが、祈りの声はしばらく途切れることなく続いていた。
最後は、再び「グロリア」を口ずさみつつ、おのおのがキャンドルを取り、それとともに入り口まで進み、キャンドルを元の場所へ戻し礼拝堂を出てそれぞれ帰途についた。
静けさと暖かさがしばらく続いていた。


たりたくみ |MAILHomePage

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