たりたの日記
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2001年05月05日(土) ある子どもの日

子どもの日が来たら父のことを書こうと思っていた。
かなり変わり者だった私の父は、四季折々の子ども関係の行事にははりきってしまうという傾向があった。子どもの日やクリスマスはいいとしても、近所の子ども達も巻き込んでの「秋の展覧会」なんぞになると、子ども心にもちょっとやりすぎのように思ったけれど、反抗もせずにいそいそと協力したのは、近所の遊び友だちがそういう父のことを嫌いでない風だったからなのだろう。友だちの目を通して見える父は自分ちの子どもだけじゃなくみんなと遊んでくれるいいおじさんだった。

 いくつもの子どもの日があり、いろんなことを父は考えてやってきたのだろうが、残念なことにそのひとつひとつは思い出すことができない。けれど、ある年の子どもの日だけは妙にはっきりと覚えている。その時の絵を何度となく、記憶の中から取り出してきたからなのだろう。

 ある子どもの日の朝、父が河原で飯ごう炊飯をやろうと言い出した。わたしが小学校1、2年の頃だったと思う。職場の人達とよく山登りする父が大きなリュックに飯ごうというものを詰めているのを見ていたが、その道具を使う場面を見たことはなかった。あの頃、出かける時に母がいっしょでなかったのは、母が自転車に乗れなかったためだろうか、それとも日々小学校の教師として働いている母は家事に忙しかったためだろうか、父は自転車の前に弟を、後ろに私を乗せて遠出をするのが常だった。

 ついた所は見知らぬ河原、随分と広い河原だった。上には鉄橋が架かっていた。そこで石を組み立ててかまどを作り、飯ごうに米と水を入れ炊いたのだった。いったい御飯の炊けるまでの長い間、私と弟は何をしていたのだろう。弟は小さい頃から我慢強く、文句を言わない質だったので、おとなしくじっとかまどの火でも見ていたのだろうか。それとも父はスケッチブックを我々に与えて自分もスケッチをしたのだろうか。とにかくやっと御飯が出来上がった時はかなりお腹が減っていたに違いなかった。その時食べた御飯がそれまでに食べたどの御飯よりおいしいと思ったからだ。おかずは魚と肉の缶詰めだけだったが、それも信じられないようなおいしさだった。父はこの御飯と缶詰めがこれほどヒットすると知っていて、子どもの日の飯ごう炊飯を思いたったのだろうか。子どもの日が来るたびに記憶に蘇るのはあの鉄橋の架かる広い河原での飯ごう炊飯だった

 あの時の記憶に惹かれて、ふっと魚の缶詰めを手に取ってスーパーのかごに入れることがある。そして期待して口にしてみるのだが、あの時のようにおいしかったためしがない。
 


たりたくみ |MAILHomePage

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