たりたの日記
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小さな子どもが人との別れを悲しみ、涙を流したりするだろうか。 わたしの甥のことを「この子は別れに弱い」と私の弟である彼の父は言う。3年前、一泊して帰るとき、見送ってくれた5歳の甥が泣いていて、それもだだっこのようにすねて泣くのではなく、祖母が孫と別れるような泣き方で泣くので、その時はかなり驚きもし、また切なくて、その顔がしばらく心から離れなかった。 もう小学3年生だし、別れに弱い彼のこともほとんど忘れていたのだが、 甥は私の帰る時が近付くと、泣き始めた。この前のように目のごみが入ったと、ごまかしながらではなく、たくさん涙を流して声をあげて泣く。でも、帰るなとだだをこねるわけではなく、おこってもいない。わたしが帰るということをきちんと受け入れている。それまで親しくいっしょに過ごしていた人間が遠い地へと離れていく、そうすれば1年も会うことはない。 彼は8歳なのに、その距離の隔たりも、時間の長さも大人のように分かっているのだ。 大人よりも悲しさが大きいのは子どもであるから。自分ひとりでは行くこともできないから、その距離は大人の感覚よりもだんぜん遠いのだし、子どもの1年は大人と違って気が遠くなるほど長いのだから。彼はすでに誰にでも訪れる死を意識しているのではないか、命の終わりのことを考えているのではないかという気がする。10年後、わたしのところから東京の大学へ通うという話しが出た時、彼の反応はわたしがまだ生きているだろうかということだったし、今回わたしが訪ねるといった時、彼は不意の事故でわたしがこられなくなることを心配した。わたしに限らず、別れるということに彼の魂の部分で深い痛みがあるのだという気がする。 わたしは彼の涙には誘われまいとがんばっていたが、彼のあの悲しみにやはり捕われてしまった。深く刻印されてしまった。幼い彼のこと、もう今ごろはすっかり何ごともなかったように、けろりとしているにちがいないが、あの時に触れてしまった魂とのできごとはわたしの中からは容易には消えない。彼の生きることに添ってくるあの悲しみを私も抱えることになるのだろう。私自信は、もうすでに距離も時間も、死さえも越えてゆく魂の存在を捕えているが、そうでなかった頃、生きることがどれほど淋しいことであったか、幼いからなおのことそれは深かったことを覚えているし、わたしの体にそのときの淋しさが残ってもいる。 彼に思いはその人のところへ届くのだという話しをした時。「おばちゃんはキリスト教でしょ。でもぼくは神様は信じていないんだ。」と薮から棒に彼が言い放った。その言葉のトーンに神様がいると思いたいという願いのようなものを感じて胸が詰まった。
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