たりたの日記
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2001年04月22日(日) エマオの途上

小学校2年生の時、友だちに誘われて、教会学校に通うようになった。
そこで聞く聖書の話しや紙芝居はおもしろかった。今でも、その時に聞いた話しが頭に描いた絵と共に思い出される。
今日はわたしが教会学校でお話をする当番だった。
テキストは「エマオの途上」
幼い頃わたしが聞いて描いた絵を今度はわたしが子供達に伝える。子供達がいきいきと描けるように、その聖書のメッセージが伝わるように話せるだろうか。
そう考えながら昨晩原稿を書く。
実際に話す時は身ぶり手ぶりでおおよそ原稿どうりには行かないのだが、話すなかで、子どもたちの気持ちがきゅっと一点に集中するところが分かる。
最後のまとめはなんだか説教くさくなって(説教なのだからしかたないのだけど)子どもたちもまたかという顔してたけど、わたしもそうおもいながらも、今でも心から離れないのだから、、、。

(教会学校での話し)
目でははっきり見ているのに見えないということがあります。
体の目は見ることができても、こころの目が塞がっていると目に映っていることがほんとうには分からないのです。
ところが体の目は見えなくても、そこでおこったことが生き生きと見えることがあります。それは心の目が見えているからです。
これからお話する二人の男のひとは、ちゃんと目は見えていたのです。それなのに心の目が開いていなかったから見えていなかったのです。
さてどんなお話なのでしょう。

イエス様が十字架に架かって3日たった日のことです。二人の男の人が、エルサレムからエマオという所に向かって歩いていました。二人は暗い顔をしてなにやら深刻そうに話をしながら歩いていました。しばらくすると、別のひとりの男の人が二人の男の人達と並んで歩き始めました。その男の人は二人の男の人に尋ねました。
「何をそんなに深刻そうに話しているのですか。」
「あなたは、エルサレムに泊まっていたのに、近頃エルサレムで起こったことを知らない  というのですか。みんながそのことで大騒ぎしているのですよ。」
「知りません、教えてください。」
「イエスという人のことです。その人は言葉も行いも人々の心を動かすすぐれた預言者、神様のお使いだったのに、祭司長や議院たちはその人を十字架に架けて死刑にしてしまったのです。わたしたちはみなその方こそ、私たちを救うものだと思っていたのです。それから3日経ったのですが、今朝女婦人たちががイエスの墓に行ってみると、墓はもぬけの殻、そこに天使が現れて、『イエスは生きておられる』といったというのです。」
その男はふたりの男にこれまでの預言者のこと、聖書に書いてあることを詳しく話しはじめました。
さて2人はエマオに着きましたがその男の人はまだ先に行こうとするので、もう遅いので、家にお泊まりくださいと二人の男はさそいました。
その夜、いっしょに夕食をしようとした時、お客となった男の人が、食卓のパンをとって、お祈りをして、そのパンを裂きました。その時、二人の男の人たちは、そのお客がイエスさまだということが分かりました。心の目が開いたのです。けれども、その瞬間イエスさまの姿は消えました。

二人の男の人たちはいっしょにエマオまでの道を歩きながら話したことを思い出しました。「あの時、あの方が誰だかは分からなかったけれど、あの方が聖書のことを話すのを聞いて心が燃えたではないか。イエスさまといっしょに歩き、イエス様の話しを聞いていたのだよ。」と感激しながら話し合いました。
さて、二人の男のひとたちは「心が燃えた」と言っています。

「心が燃える」というのはどういうことなのでしょうか。
みなさんは「心が燃える」という気持ちになったことがありますか。
わたしは心が燃えるというのは、心がエネルギーでいっぱいになって、まきをたくさん入れられた暖炉のように、また燃料をたくさん補給された機械のように、元気に燃えはじめ、元気に働き始めるようになること、またうれしい気持ちでいっぱいになったり心が熱い感じになることだと思います。みんなはどんな時にそんな気持ちになるのかな。ゲームをしていて興奮している時?本やマンガに夢中になっている時?

私たちの体は食べ物や飲み物を取らないと、元気がなくなって、最後は死んでしまうっていうことは知っているよね。でも心はどうなんだろう。心だって同じようにエネルギーをもらわなければ、元気がなくなって、心の病気にだってなるんじゃないかしら。私たちが毎週教会にやってくるのは、イエスさまのお話を聞き、お祈りをし、讃美歌を歌うことで、心にエネルギーを補給するためなの。魂の御飯を食べるために、教会学校に来るのよ。毎週、魂の御飯をいただいて、こころを燃やしていましょう。


たりたくみ |MAILHomePage

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