サーモンピンク・フラミンゴ
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2010年11月16日(火) 細かい内容はさておき、私こういうものです という現象:後編

前回からの続き、「6年生になってからの女子のボスがヤったアレは、今でいう『いじめ』だったんではないかしら」とゆーお話から、また長々と語らせていただきます。


その子は転校生で、確か5年の終わり頃に転入してきたのですが、6年になってからメキメキと頭角をあらわし始め、「影のボス」としてクラスに君臨しておりました。
とても派手できれいな顔立ちをした子で、背も高くて胸もすごく大きくて。
胸なんて関係ねえだろ、と思われるかもしれませんが、小学校高学年て、体ができあがっている女の子って、リーダー格になりやすかったりしませんか。
無言の説得力があるんですよ。
その子はさらに、なんだか無駄に色気のある娘でした。

で、よくあることですが、その子がひとこと
「今日から○○ちゃんをみんなで無視ね」
と言えば、皆がそれに従いましてね。

ワタシは正義感がやたら強い子どもだったので(あの頃のワタシはどこへいったのかしら…)、それには参加しなかったんですが。

2人目のターゲットになってから、ワタシ、おかーさんに「こういうことが起きているんだけど」と話してみたんですよ。
まあ、母親として言うべきことはひとつですぁーな。
「じょりぃは加担しないように」と。

見ていて、仲間はずれにされてる子のやるせなさったらないんですよね。
昨日まで仲良くしてた子も口きいてくれないんですからね、急に。
最初にやられた子はびっくりしたと思いますですよ。何が起こったのかわからなかったに違いない。
ターゲットは、ホントにN田(ボスの少女です)の気まぐれで決まっちゃいますからね。
何人か目になれば、「ああ、今はあたしなんだな」ってわかるので、いくらか無視される子の気持ちも違ってくるのですが、
それでもやっぱり「ぽつーーーん」はさびしい。
ましてやまだ6年生ですからね。

ワタシは加担しないだけでなく、クラス委員気質も手伝って積極的にターゲットに話しかけてたりしたんですが。
それに、N田とは一緒にバスケやってるし仲良かったしということで、N田のやり口に従わなくても「自分はターゲットにならない」という自信があったんです。

男子のときも「ワタシなら大丈夫」という根拠のない自信に満ちあふれていたワタシ。
ということは、この場合もどうなったかお察しいただけると思うんですが。

N田も辛抱強く、自分に従わないワタシとも仲良くしていたんですが。
ある日、まーたワタシがねー、根拠のない自信に満ちあふれていたせいで、つい言った。

「N田ー、もうこういうのやめない? 自分がされたらイヤじゃない?」


翌日から、ターゲットはワタシに(°▽°)あらま!


まあ、順番だし、ワタシ、気にしないもんね。
と思ってはいたものの。

これはですね、男子にボコられたときよりも、精神的にキツかったです。
N田のことは「あーゆー子だから」とあまり気にならなかったんですが、ターゲットになったときにワタシが話しかけていた子たちも、やっぱりワタシと口きいてくれなくなりましてね。
今なら「まあ、そうだろな」って思えますが、当時はホントにしょんぼりしちゃいましてね。
もしかしたら、自分がターゲットになったときに、何か変わるんじゃないかって期待していたんですよ。
あまり美しくない心情を率直に申し上げれば、「あのときの恩、返してもらえるんじゃね?」って思っていたと。

だけどやっぱりぽつーーーん。
放課後、ミニバス行ってもぽつーーーん。

やー、こたえたこたえた。
同じクラスにいたハトコも口きいてくれないんだもん。おめー、根に持つぞ!

んで、親に「さびしいし、ワタシ、思ってたよりみんなに好かれてなかったみたい」っつって、しくしく泣いたわけですよ。

母は「そのうち元に戻るから」ということと
「お父さんとお母さんは味方なんだから、いいじゃない」ということを言いまして。

そりゃあそうだろうけどさー、モンダイは学校にいるときだしー、とかぐずぐず言いましたら

「N田は、両親が味方してくれないんじゃないかな。N田はさびしくて、怖いんだよ。だから人を威嚇して自分の身を守るんだよ」と。

狭いコミュニティですからね。なんか、N田の家庭事情とか、母親は知っていたらしく。
たまに顔にアザつくって登校していた N田。
とーちゃんが乱暴者だったらしいんですな。
もちろん、親に暴力を受けていてもN田みたいにその不満をクラスメイトに反映する子になるとは限りません。
当時は「だから何?」と思ったワタシでしたが、今となってみれば「N田も被害者である」ということは理解できます。という話です。

でまあ、そのうち通りすがりに「じょりぃ、ごめん」なんて、こそっと耳打ちする子がちらほら出てきたりして。
それだけでも、ものすごーーーーーく心情的に違うもんなんですね。
ワタシ、嫌われてるわけじゃないんだ、って思えましたし。
無視が続いてくると、「もしかしたら、自分で気づいてなかっただけで、みんなワタシのこと好きじゃなかったのかも・・・」なんて思ったりしてましたので。

で。
ある日、またクラスのみんながフツウに話しかけてきてくれまして。
やったーーー( ^ ω ^ 。)ワタシ、ターゲットから外れたーーーーー!!!

と安心したものの。
えー、じゃあ、次って誰?とそわそわするじょりぃ。
ワ、ワタシ、今回のですっかり凹んだけど、ま、またがんばるもんね。かかかかか、加担しないもんね!と思いつつ、そわそわきょろきょろ。

ターゲット判明。
N田になってました。
どうやらみんなの堪忍袋の緒が切れた模様。

ざまあみろ。
と思うワタシがいたのはまぎれもない事実でございます。
みんなの気持ちがわかったかこのやろう。
てか、みんなはもっとつらかったんだよこのボイン女!(ホントに胸でっかかった)

・・・・・・。


でもやっぱ、なんかかわいそう・・・。


・・・・・・。


目が赤い。  泣いてるのかな。


・・・・・・。


おうちに帰っても、ワタシみたいにおかーさんとおとーさんが味方してくれないのかも・・・。



・・・・・(´・ω・`)


しばらくして、

「ねえ、N田に話しかけてもいい?」

と、誰のグループにだったかは忘れましたが、一応ことわりを入れてみることにしたじょりぃ。
(ワタシはこのころもう既に、「どこのグループにも属さないじょりぃ」になっていたので、自分のグループの仲間に相談するっつーことができなかったのでありんす)

そのときのやりとりは忘れましたが、まあ、ダメって言われても話しかけちゃうつもりでいたので、とりあえず言ってみただけだったんですが。
せっかくN田以外で「これからは無視に負けない」とか結束固めているのに(っつってN田を無視してるあたり、小学生らしくてかわいいですが)、ワタシがひとりでいーかっこして雰囲気壊すと悪いのかなー、とか、このころには少し考えられるようになってきていたじょりぃ。

でまあ、とにかく、話しかけてみることに。
話しかけても無視されるかもなー、N田、気ぃ強いしなーとか思いつつ、「音楽室、一緒に行こー」みたいな感じで声をかけてみました。

だまって一緒に歩き出すN田。
ワタシも黙ってました。何話していいかわからん。

そしたらN田が言いました。

「ごめんね」


やーーー、驚いた驚いた。
謝るような子じゃないんですよ!

「みんなに言っとくよ」
「うん」


それでまあ、たぶん、いったん収まったように記憶してるんですが。
ワタシその後引っ越して転校しちゃったので、その後クラスがどうなったかは不明です。



とまあ、また自分語りが長くなっちゃったんですが。
こういう「今でいうところのいじめ」ってあったよね、とサラッと自分の体験例を挙げるだけのつもりで書き始めたんですが、やっぱ顛末は中途半端にお伝えするよりキッチリお伝えしたくてですね。
N田に関しては、ほら、ワタシちょっとがんばりましたし。
ワタシがんばったの!ってところまで書きたいじゃないですか。自慢マンとして。


この「女子特有の無視&仲間はずれ攻撃」もですね、当時「いじめ」という言葉が今のように使われていれば、これはもう、詳しい経緯や実際の事象は後付けになって、まずは「いじめ」って言葉で済まされてしまう可能性があるんじゃないか、と思うんですよ。
が、このころは、「誰が誰にどうされている」ということが大前提だったと思うんです。ワタシのまわりに関して言えば、って注釈はつけなければならないと思いますが。
行われている行為をすべてひとことで語れちゃう、「いじめ」という代名詞のような言葉が今はあるために、とらえかたが非常に大雑把になっているのではなかろうか、と。
それに「順繰りに無視されて、現在自分がターゲットになっている状態」と認識するのと、「いじめっつーもんに遭っている自分」と認識するのでは、これは精神的ダメージが違ってくるんじゃないかしら?と、ひとりよがりに考えてみたわけです。

もうひとつ。

たとえば、最近よく新聞やニュースで、桐生市の小6がいじめが原因で自殺した、ということが取り上げられてますが。
この手のニュースで気になるのが、学校側がよく発表する

「いじめという認識はなかった」

という言葉であります。

いじめ という言葉の定義にあてはまるかどうか、そこが焦点になっているような気が。

しかし、第三者が「いじめ」という認識を持とうが持つまいが、事件は現場で起きているわけですよ。
第三者(たとえば教師や親)が「いじめ」と認識しなくても、Aちゃんがクラスの仲間はずれになっていたら、これは子どもの世界では大いなる異常事態なわけですよ。当事者にとっても、そのまわりの子どもたちにとっても。
逆に言えば、日頃から男子に目を付けられて口撃や暴力を受けていても、囲まれてボコられようとも、されてる本人が「これはいじめだ」と思わなければそれはいじめではないわけですよ。ワタシの例でいえば、ケンカだと思ってたわけですし。
しかし今の「いじめ」の基準に照らし合わせれば、客観的には「いじめ」と十分認識されてしまう内容だったと思います。
そして、教師が、ワタシが男子にされていることを知って
「じょりぃさんがじめに遭っているらしいですが・・・」
なんて話をしたら、ワタシたぶん、「えええええええ!」ってな感じで、立ち直れなかったかも。
知らなくていいことに気づかされてしまったよワタシ・・・てな具合に。

何が言いたいかといいますと、
「いじめ」という便利で非情な言葉が流通したせいで、本質がなおさら見えなくなっちまっているんではないですかねえ。ってことです。
たとえ見えていても、「それはいじめに該当するかどうか」というその一点が問題にされてしまうというか。
熱心な教師が対応しようとしても、学校の問題として持ち上げたいときにも「それはいじめに該当するかどうか」で、その教師が上を説得できなかったり。

桐生市の子の件でいえば、仲良し同士で給食のグループつくってー、ってルールにおいて、ひとりで給食食べてるというのは、相当異常な光景だと思います。
「いじめ」かどうかなんて問題ではありません。
その子がどのグループにも入れず、ひとりで食べてるというその事象が変ですし、なんともかわいそうであります。
「いや、ひとりが好きなんで」という人もいるでしょうけど(オトナになったワタシなんてその類ですし)、でも小学生じゃ、ちょっといなそう。
どんだけつらくて長い給食タイムだったろうかと。

この事件に関しては担任の先生が責められてますが、先生、まだ20代とのこと。
社会経験もなく教師になって、この事態に対応できなかった先生を思うと、こちらもなんだか気の毒です。学級崩壊していたらしいですし。
学級崩壊も教師の責任だろ、って片づけるのもなんだか乱暴です。6年生にもなれば、子どもとはいえあなどれないですよ。ひとりの人間として、もう難しいです。
それに責任云々抜きにして、この状況下で自分の教え子が命を絶ったとなれば、一生その十字架を背負っていかねばならないですよ。
って、これは話から逸れてますが。

「いじめという定義」にあてはまることを認めるかどうかで、賠償金やら処分やらが変わってきてしまうから、なおさら学校側は「いじめという認識」という言葉を使いたがるんでしょうけれども。
だとしたらもう、この「いじめ」って言葉は弊害ばかり生んでいる気がしないでもありません。

さらに言えば「モンスターペアレンツ」という言葉も、「いじめ」と同じくらい害を生んでいる言葉なんじゃないかとワタシは思っています。
マスコミ的には「いじめ」も「モンスターペアレンツ」も非常に便利。とっても使いやすいです。
しかしそこには、ここで書いたことのある「同性愛に理解のないかたの入室はお断りします」に通じる、良識ある人の行動を鈍らせる力があります。
「これは『いじめ』に該当するのかな?そうでなければ言い出してはいけないのだろうか?」
「これは学校に相談したほうがいいのだろうか? でもそれって自分がモンペってことになのだろうか?」 等々。
良識ある人は、言葉が定義されていれば当然考えてしまうと思います。
良識のない人は、言葉を武器にしていじめをないものにしたりあるものにしたり、また、定義を逆手にとってモンペパワーを発揮するんじゃないでしょうかね。


でー。
長くなっちゃってすんませんなんですが、こういう「細かい内容はさておき、私、こういうものです」という現象って「いじめ」という言葉に限らないわけですよね、もちろん。

たとえば、ワタシがまだ、自分がレズビアン(正確にはバイセクシャルですけど、もういいですよねこの注釈)だと認めるのがどーーーーしてもイヤでイヤでしょうがなかったころ。
同族嫌悪も激しく、「レズ」という言葉を耳にするだけでも体が固くなっておりました。

しかし。

「ワタシは女の子が好き」と思うことには抵抗がなかったのです。
むしろそれは心地良くもありました。
女の子が好き、ということを認めることができて、好きな女の子のことを考えているときは、ワタシにとって至福でありました。

でも、「ワタシはレズビアン(または同性愛者)である」と考えることには、言いようのない抵抗があったんです。
なぜか。

それは、知識や情報のないワタシの中で、「レズビアン」という言葉が一人歩きしていたからだと思うのです。
立派なステレオタイプができあがっておりました。
とはいえ、具体的に「レズビアンて、これこれこうで、こういう人」という定義が自分の中にあったわけではありません。
それすら行おうとしなかったんです。
ただひたすらに「レズビアン」と呼ばれるカテゴリに、その漠然としたイメージに、自分が該当すると認識することがおそろしかったんです。

しかし、ネットの恩恵にあやかり、「レズビアン」と呼ばれる人たちには、様々な人がいることがわかりました。
みんな違って、みんないい。 と、みすずさんのフレーズを口にしたくもなろうというものです。
これはワタシが「レズビアン」という言葉の意味をきちんと知ったから、ということではなく、
レズビアンと呼ばれるひとりひとりを知り、さらにそのひとりひとりの考え方や生き方を知ることができたからであります。

「いじめ」という言葉が、起こっている事象を後回しにしてひとり歩きし、その言葉が人々の判断の目安になってしまっているように、
「レズビアン」という言葉もまた、ワタシたちひとりひとりに起こっている事象や人間性を後回しにし、世間を闊歩しちゃっている可能性は大いにあるわけです。


だから何? で、どうすればいいわけ?


と聞かれても、今のワタシにはわかりません(´∀`)すんません


「細かい内容はさておき、ワタシ、レズビアンです」ではなくて

「レズビアンという括りの名前はさておき、ワタシ、こういう内容の人間です」

というとらえかたを、ワタシもまわりも自然にできるようになっていけばいいなーと。

そんなことをほにゃーんと思ったりします。


まあ、実際は
「レズビアンという括りはさておき、おまえという人間はハナモチならねえ!」
とか怒られるワタシかもしれませんが( ´∀`)アハハー (ホントにありそうで困る)



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