サーモンピンク・フラミンゴ
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2004年02月28日(土) 本当にそれでも愛は変わらなかったのか

重たいタイトルでスタートしてみた軽い人間じょりぃですこんばんは。

「本当にそれでも愛は変わらなかったのか」、この崇高な問いを、ワタシは誰に対して発しているのか。
発されている人、心して聞くように。

て、自分自身に発しているんですが。
心して発し、心して聞くじょりぃ。
相も変わらない、一人上手。
世界中にワタシ一人だけになっても、全然さびしくなさそうです。

ていうか、それほど重たい話題ではないんですが。


ワタシが13歳のときから、というか、正確には12歳のときからなんですが、ナナのことをずーーーーっと好きなのは、もうみなさま、耳にタコができて酢の物にして食っちまいたいくらい繰り返し申し伝えさせていただいているわけですが。

中学3年間部活仲間として過ごし、高校は別になったので、たまーーーーーーに姿を見たりする程度のつきあいになり。
高校時代もほんの数回ナナの家に行ったりはしたのですが、最後、確か高校3年の夏頃にナナの家に行ったときに、ワタシといるのがとてもイヤそうなナナの態度にショックを受け、それっきり会うことはありませんでした。

そのことをナナに最近伝えましたら「まったく記憶にない」と。
本人も大変びつくーりしておりました。
まあ、そんなものですよね。
「家で何かゴタゴタが起きていたときに、じょりぃが来ちゃったのかも。とにかく早く帰ってほしい、ここにいないで、って思って冷たい態度を取った可能性はすごくあるけど。じょりぃに対してイヤだと思ったことはないよ」
と言ってもらって、なんだ、そんなことだったのかと安心するとともに、それだけのことだったのに臆病になってナナと音信不通になっていた自分をちょっと悔やみました。

しかし、ワタシとナナの場合、今になって再会したから、現在このように親しくできているんだろう、ということは大いにあるわけなので(若い頃のワタシったら、ス巻きにして太平洋に流してしまいたいくらいイヤな人間でしたもので)、結果オーライと言えばオーライです。
本当に、負け惜しみとかプラス思考的発想でなく「今、友達としてやり直せてよかった」と痛感しているじょりぃなんですが。


で。

そのように別れたまま、ナナと会えずに、ナナの情報すらほとんどないまま(結婚したことすら知らなかったワタシ)、それでもナナのことを思い続けた、10年後。
ということで、28歳のときですね。
ナナからの年賀状に「あたしから電話することはないと思うので、じょりぃからかけてください」と書いてありました。

ひどいお誘いですネ☆

が、お誘いです。
電話してもいいんです。ということです。


しーばーらーくー悩みました。

何を悩んだかと言えば。

まずは、単に恥ずかしいし緊張するから。
ちゃんと話せる自信は皆無でしたし。

もうひとつは。


とにかく、最後に気まずく別れてから10年たっているわけです。
その10年間、ワタシの心にはいつもいつでもナナがいました。
でもそれって、幻みたいなものです。
ナナがどんな風に変わっているのか、今どんな生活をしているのか、どんな姿をしているのか。
現実のナナをまったく知りません。
高校時代の姿すら思い出せない状態です。
28歳のワタシの中では、今もやせっっぽちで15歳のナナが微笑んでいて、15歳の少女の姿と精神でもってワタシの心を支配していたわけです。

ナナに対するワタシの想い。
これだけはワタシの中で、絶対に変わらないものであり、核となるものであり、その気持ちには絶対の自信があったのですが。

それはワタシの中だけにある、15歳で止まっているナナであり、17歳の時にワタシに冷たくあたったナナであります。

ほぼ「想像上の人物」と言ってしまっても良いでしょう。
どんな空想も妄想も自由だった、ワタシの中での10年間のナナ。
きっとすごく、自分の中で理想化されているに違いありません。


怖かったんです。
今のナナと接触を持つことで、この想いが壊れてしまうかもしれない。
現実の、28歳の、誰かの妻であり母であるナナに対峙したときに、ワタシは今までと同じでいられるんだろうか。
容姿だって、全然変わってしまっているかもしれない。
それでも気持ちは、愛は変わらないのだろうか。 てな具合です。
そして、変わってしまったとき、ワタシはどうなってしまうんだろう、と。
ワタシは「生きる」ということにまったく執着がなくてですね。
最近ではそうでもなくなってきましたが。
自分以外の人のせいにして生きるというのはとてつもなく卑怯な考え方なんですが、ナナへの想いだけが「ワタシが生きている」という意味を持っていたのです。と思いこんでいたのです。
その想いがなくなってしまったら、ワタシ、どうなっちゃうんだろう。
なーんて、「弱い」としか言いようのない人間だった28歳のじょりぃ。
今は雑草を食べても生きていきそうな気配ですが。
30過ぎるっていいですね。
じょりぃですら、こんなにたくましくなれるんです。

などとあれこれ思案した上で、ワタシはナナに電話をすることに決めました。

何がどうであろうと、気持ちは変わらないだろう。 と思ったからです。
例え頭がおかしくなっててよだれや糞尿垂れ流し状態のナナでも、ワタシは彼女を好きだろうなと。(すごい想像ですが)

電話は、近所の書店の駐車場から携帯でしました。
なんでそこからしたのかな。 ちょと笑えますが。

そして、電話の感想。

実は、覚えておりません。
舞い上がりすぎていたのです。
汗びっしょりかいたのは覚えております。

そのとき、「ちょっとお茶でもしようよ」ということになり、いよいよ会うことに。


容姿が変わっていたらどうしよう。 とまた思い悩むじょりぃ。
ダンプ●本状態になっていても気持ちは変わらないのかな。
ものすごく貧乏くさくなってたらどうしよう。
貧乏神みたいな人相になってたらどうしよう。
下品な人になってたらどうしよう。

いや。それでも変わらないよ。
こんなに好きなんだもの。
外見や品性が変わってたって、気持ちが変わるはずない。
いや、ワタシはそーゆーことでころっと評価が変わる人間ですが、ナナへの気持ちだけは特別なはず。


ということで、会いました。


そこには、ワタシの記憶がそのままオトナになっただけのナナがいました。
体型も基本的にほとんど一緒。 顔は輪郭がシャープになったけど、ナナのままです。
そして、変わらない特徴のある笑い声。

ワタシがどんなに嬉しかったことか。
そして、どんなに汗かいちゃったことか。
どんなに一生懸命会話したことか。
どんなにシアワセだったことか。(くどい)


でも、それっきり。

「また会おうよ」とワタシからナナに電話することができませんでした。
結局、そのときに会えただけで、ワタシはまた(ナナに対して)ひきこもったわけです。
ナナはそもそもワタシに興味があるわけではありませんから、それっきり連絡は来ませんでした。
そしてワタシは、今度はちゃんとオトナになったナナを、ひたすら自分の中だけで愛しました。
とはいえ、たった一度のお茶程度で、今のナナのことを知ると言ってもたかがしれています。
というか、何も知らないに等しい状態です。
お互い、そんな状況で、相手に込み入った話はしませんからね。
なので相変わらず、ナナは「ワタシの妄想の中だけのナナ」として、ワタシに一方的に、ある意味歪んだカタチで愛されておりました。

そして数年後、今度こそきちんと「再会」といえるカタチで仕切り直し、今にいたっているわけですが。
その「再会」のときも、ナナはワタシの期待を裏切らない姿と、期待を上回る人間性をもって現れてくれまして。


だらだらと何が言いたいのかと言いますと。

まず、ナナが「(容姿が)昔のままオトナになってくれた」ということが、ワタシにとって非常にラッキーだったわけです。
性格は、ワタシが愛してやまなかった昔のヤヴァイ感じのナナはなりを潜め、かなりフツウの分別ある人間になってきていて、実はちょっと「なんだかつまんないな」と思ったりもしたのですが、実際あのままオトナになってしまったらそれはそれで困るのでまあヨシとして。

でも、もし。

ナナが「ものすごく貧相な顔と貧乏くさいナリをしたダンプ松●(しかも下品)」になってしまっていたとしたら。

上記にしつこいほど書いた、ワタシのひとりよがりな「愛」は、本当にそれでも変わらなかったのでしょうか。


と、自分の事ながら思ったりするわけです。
疑っているわけです。


28歳で会うときにさんざん悩んで「たとえどんなナナになっていたとしても、気持ちは変わらない!」と、自信を持って臨んだじょりぃでしたが、そして、実際に気持ちは変わらなかったわけですが。

それはナナが変わっていなかったからです。結局のところ。


恵まれた状態で再会し、「飽きた」なんて憎まれ口を叩きながらも、今も変わらずにナナのことを想い続けている今、冷静に考えてみると。


実に疑わしいのです。
本当にそれでも愛は変わらなかったのか。


変わってたかも。


なんてことを考えると、ワタシという人間の小ささを思うとともに、ワタシにとっての愛って、結局のところ幻想と思い込みでしかないのではないか、などと感じて、自己嫌悪に陥ったりするわけですが。
幻想と思い込みでスパーク! って、愛と言うより恋ですよね。
恋の感情しかないから、「一緒になってもうまくいかない」とか思ってしまうのでしょうか。
そうなのかな。
だとしたら、なんとなくさびしいな。 自分のこととはいえ。


とはいえやはり、もし今、ナナがどうかなってしまって、ワタシのこともわからなくなって、よだれや糞尿垂れ流しになってしまってもたぶん気持ちは変わらない自信がありますけれどもね。
そんな状態であっても、ナナがこの世にいてくれるだけで、ワタシも生きていけるでしょう。
でもそれって、結局「ワタシのために存在するナナ」であって、無私無償の愛ではないってことですよね。

ちょっとショック。

所詮、ワタシはワタシをいちばん愛しているのね。
ワタシのためにワタシは生きているのね。

って、なんだ、健全じゃん。 よかった☆

長々だらだらと書いておいて、最後は開き直ってみました。
実にワタシらしいです。









そしてダンプ様、引き合いに出してゴメンね☆


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