『資本論』を読む会の報告
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■第19回『資本論』を読む会は、6月17日(火)に行われました。
「第18回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注29の後から注31の少し前までを輪読し、討論しました。
【内容要約】
●中世の社会
ヨーロッパの中世では、人格的依存が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上にたつ生活領域をも特徴づけている。
人格的依存関係のもとでは、労働も生産物も幻想的姿態(価値や商品といった)をとらない。労働の現物形態、労働の特殊性が労働の直接的に社会的な形態である。
労働における人格と人格との社会的諸関係は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的諸関係に変装されない。
●農民家族
共同的な、すなわち直接に社会化された労働の一例として、自家用のために生産する農民家族の家父長的な勤労がある。
自家用のために生産された穀物や家畜、糸や布、衣類などは、家族に対してその家族労働のさまざまな生産物として相対するが、それら自身がたがいに商品として相対することはない。
これらの生産物を生み出したさまざまな労働は、その現物形態のままで社会的機能をなしている。なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だから。
ここでは、継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから、労働そのものの規定として現れる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するから。
●自由な人びとの連合体(アソシエーション)
共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみる。
連合体の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は、ふたたび生産手段として役立つ。この部分は依然として社会的である。しかし、もう一つの部分は生活手段として分配される。
商品生産と対比するために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定すると前提する。そうすると、労働時間は二重の役割を果たす。労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的関与の尺度として、共同生産物のうち個人的に消費されうる部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度として役立つ。
人びとが彼らの労働および労働生産物に対してもつ社会的諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である。
●さまざまな社会的生産有機体に対応する宗教意識、その消滅の条件
古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明。しかしそれは、他の人間との自然的な種族関係の臍帯からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとづく。このような生産有機体は、労働の生産力の低い段階によって制約されており、またそれに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。(古代の自然宗教や民族宗教に反映)
商品生産の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働としてたがいに関係させるということにある。(キリスト教が適当な宗教形態)
およそ、現実の世界の宗教的反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的関係を表すようになったときに、はじめて消滅しうる。
社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。
しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的所産なのである。
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