『資本論』を読む会の報告
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■第20回『資本論』を読む会は、6月24日(火)に行われました。
第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注31の少し前から注35までを輪読し、討論しました。
ところで、経済学は、不完全ながらも価値と価値量を分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、なぜこの内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえなかったのである。
そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている(国民文庫147頁・原頁95-96)
●「生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体」とはどんな社会をさしているのか?
議論になった一つは、商品生産社会(資本主義社会)以前の社会を「人間が生産過程を支配している」といえるのかということでした。
商品生産社会では、生産における人と人との関係が、物と物との関係としてあらわれ、人は物に支配されている。それ以前の社会では、人と人との関係がそのまま人と人との関係として透明だ。なんらかの形で人間の意志によって社会的生産がコントロールされている。生産過程が人間を支配している社会は商品生産社会(資本主義社会)だけではないかという意見が出されました。
これに対して、確かに物が人を支配しているのは商品生産社会(資本主義社会)だが、それ以前の生産力が低かった社会を「人間が生産過程を支配している」といえるのかという疑問が出されました。
これについては、はっきりとした結論は出ませんでしたが、この文章では「まだ生産過程を支配していない社会」と書かれており、資本主義の後に来る社会を念頭において、人間が生産過程を支配している社会について語っている。ここで問題にしている「生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体」は、商品生産社会(資本主義社会)だということを確認しました。
●「諸定式」とは?
範疇というなら分かりやすい。それなら商品や貨幣、価値や価格と思われる。ここでは「諸定式」と書かれているが、やはり商品や価値などのことではないかとの意見が出されました。
結論としては「価値とは労働だ」とか「価値の大きさはその生産に必要な労働時間によってきまる」という経済学が発見した定式のことだろうということになりました。
●労働の二面性の把握の重要性
注31でかかれている「古典派経済学は、諸労働の単なる量的区別がそれらの質的統一性または同等性を、したがってまたそれの抽象的人間労働への還元を前提するということを思いつかなかった」という指摘は重要。
●価値でもって価値を規定する議論
「労働の価値」を前提し、それによってあとから他の商品の価値を規定するのは俗流経済学的浅薄さだ。つまり、価値によって価値を規定するのは何の説明ににもなっていない堂々巡りだ。
●古典派経済学の根本欠陥
その一つは、価値の形態を見つけ出すことに成功しなかったこと。
その原因は、価値の大きさの分析に注意を奪われたということだけでなく、ブルジョア的生産様式を社会的生産の永遠の自然形態と見誤ったからだ。
●古典派経済学と俗流経済学
注32のなかでマルクスは「私が古典派経済学というのは、ブルジョア的生産諸関係の内的関係を探求するW・ペティー以来のすべての経済学をさし、これに対して俗流経済学というのは、外見上の関係のなかだけをうろつきまわり、いわばもっとも粗雑な現象のもっともらしい解説とブルジョア的自家需要とのために、科学的経済学によって当の昔に与えられた材料をたえずあらためて反芻し、それ以外には、自分たちの最善の世界についてのブルジョア的生産当事者たちの平凡でひとりよがりの諸観念を体系づけ、学問めかし、永遠の真理だと宣言するだけにとどまる経済学をさしている」と書いている。
●非歴史的な考え方
注33では、『哲学の貧困』からの引用がなされ、封建制の制度は人為的制度で、ブルジョアジーの制度は自然的制度だとする経済学者たちの奇妙なやり方について述べている。彼らによれば「かつてはとにかく歴史があったが、もうそれは存在しない」ということになる。彼らにとってはブルジュアジーの制度は、永遠の、完成された制度なのだ。
●リカード 1772-1823 イギリスの経済学者・古典派経済学の代表者。
●W・ペティー ウイリアム・ペティー 1623-1687 イングランドに生まれる。近世経済学の建設者にしてその父とされる。 天才的・独創的な経済研究者であると同時に、いわば統計学の発明者。
●バスティア 1801-1850 フランスの俗流経済学者で自由貿易論者。
【資料】 唯物史観の定式
私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは自分の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化できる。
人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。
物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。
経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急速に変革される。このような諸変革の考察にあたつては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それをたたかいぬく場面である法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的なまたは哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。
ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力し生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。
一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度な生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。
それだから、人間はつねに、自分が解決しえる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。
大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる。
ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる。
(マルクス『経済学批判』序言 国民文庫15-17頁)
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