『資本論』を読む会の報告
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■第18回『資本論』を読む会は、6月10日(火)に行われました。
「第17回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注27の後から注29までを輪読し、討論しました。
●「労働生産物の価値性格は、それが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである」とはどういうことか?
前のところでどのような割合で生産物が交換されるかが一定の習慣的な固定性にまで成熟すると、その割合はあたかも労働生産物の性質から生じるように見えると述べている。時折の偶然の生産物交換ではなく、最初から交換を目的として生産が行われるようになると、労働生産物ははつきりと商品という性格をもつようになる。 言い換えれば、価値性格がはっきりとしてくる。
ここで、「価値量として実証される」とは、他の生産物の一定量と交換されることでをさしていると思われる。価値とは、無差別一様な労働の対象的な形態であり、他のどんな労働の生産物とも交換されうることの表現である。価値であることは、現実に他商品と交換されることによって実証(現実化)される。
お互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。(国民文庫第1分冊139−140頁 原頁89)
●「絶えずそれらの社会的に均衡のとれた限界に還元させる」とはどのような内容を述べているのか?
「均衡のとれた限界」をどう理解するかで二つの意見が出されました。 一つは、価格は変動するが、その変動の中心には価値がある。変動する価格は、結局は価値に還元されるということではないかというもの。 もう一つは、「均衡のとれた限度」というのは、社会が必要とする物の生産が行われること、社会全体の需要に応じた生産が行われることではないか。需要との関係で言えば、供給が過少なら価格はあがり、供給が過剰であれば価格は下がる。こうした価格の変動を通じて、さまざまな使用価値を生産する各部門のバランスがとられるということではないかというもの。 明確な結論は出ず、今後も考えていくことにしました。
●「それの発見は、労働生産物の価値量の偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的形態を解消させはしない」とはどういう意味か?
商品の分析によって、価値量がその生産に社会的に必要な労働時間によって規定されていることを知ることはできたが、それによってある商品に含まれている社会的必要労働時間がどれだけかが分かるわけではない。労働(労働時間)そのものとしてではなく、その対象化した形態=価値(価値量)として、物の性質として表れる以外にないということ。
労働生産物に商品という刻印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性を持っているのである。こうして価値量の規定に導いたものは商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。(国民文庫第1分冊140−141頁 原頁89-90)
●「商品流通に前提されている諸形態」とは?
商品、価格、交換価値、貨幣などのことではないか。
ところが、まさに商品世界のこの完成形態――貨幣形態――こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。(国民文庫第1分冊141頁 原頁90)
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【資料】 マルクスはまず商品の生産をとつて、その労働に二つの面があり、一つは特定の生産活動として示される具体的な有用労働の面、一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面があることを明らかにする。ところで、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物資を獲得するにあたっては、かれはその生産活動の全体を、所期の有用生産物の生産に要する労働時間を基準にして種々の有用労働に配分しなければならない。商品生産社会でも、社会の存続のためには、社会的総労働が、社会的欲望を充足するにたる種種な使用価値の生産に、それぞれの生産に要する労働時間を基準にして配分されなければならない。このばあい、一定の有用労働として一定の社会的欲望をみたす個々の生産者の私的労働は、商品社会全体の総労働の一部として、他のすべての私的労働と同じように一般的な人間労働として支出されることになる。
けれども、もともと労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するのではない。個々の人間の労働がなんらなの仕方で、社会的総労働の部分としての関連をもたなければならないという社会的な生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交換関係をとおして達成される。いいかえると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換される特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのである。商品の価値というのは、こうした商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかならない。すなわち、私的労働として支出される有用労働の面が商品の使用価値となって現れて、種々雑多な商品体の差異をつくりだすのに対して、一般的な人間労働の面は価値として諸商品の質的な同等性をつくりだし、価値の大いさは諸商品の生産に必要な労働時間を基準にして比較計量されうるものとなり、かくしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのである。したがってまた個々の商品価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定されないということが重要である。
商品の価値を形成する一般的労働は商品交換をとおしてはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定されるほかはない。要するに、商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなくて、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができる。 (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 111-113頁)
商品生産の社会では、社会的労働の配分という社会的生産の一般的原則が直接に人間の手で処理されないで、商品と商品の交換関係、すなわち物と物との関係という回り道をとおして実現される。それゆえ、人間は逆に商品交換の法則性に支配されざるをえなくなり、それと同時に商品のもつ特定の社会的性格は商品という物のもつ自然的性質のごとくま受取られ、商品交換の法則性はあたかも自然法則のごとき観を呈するし、また実際そういう作用をなすことになる。このようにして商品経済は、もともと人間のつくり出した物が、逆に人間自身を支配するという物神的性格を固有のものとして生み出すのである。 (玉野井芳郎『経済学の主要遺産』講談社学芸文庫 117-118頁)
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