『資本論』を読む会の報告
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■第17回『資本論』を読む会は、6月3日(火)に行われました。
「第16回資本論を読む会の報告」を検討した後、第4節「商品の呪物的性格とその秘密」の注27までを輪読し、討論しました。
「第16回の報告」をめぐって
価値規定の内容について、「報告では、価値規定を『社会的必要労働時間による商品の価値量の規定』としているが、量だけではなく、質的な規定の内容もある。価値規定とは『価値とは抽象的人間労働の対象化であり、価値量は社会的必要労働時間によってはかられる』とすべきではないか。価値規定の内容は『抽象的人間労働』および『社会的必要労働時間』のことと理解すべきだ」との意見が出されました。結論としては「質的なことも含むと考えるべきで、報告は不十分だった」ということになりました。
また、「報告」で
●「人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ」とはどういうことか? よくわからない。 ここでは価値規定の内容について述べている。「第一に」と「第二に」はわかるが「最後に」はどういうことだろうとの疑問が出された。「社会的形態」は労働について述べられているのだから「社会的必要労働」のこと、個々の労働力が「一つの同じ人間労働力とみなされる」という意味ではないかと考えられるが…それでいいのだろうか。
と書かれていたことについて、「人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ」というのは必ずしも商品生産社会だけのことをさしているのではなく、もっと一般的に述べているのではないかとの意見が出され、そのように読むことができることを確認しました。
そして、商品生産社会の労働を考えるなら、その社会的形態は「個々の労働は、一つの同じ人間的労働力の支出として、抽象的人間労働とみなされる」ことをさしているのではないかということになりました。
これと関連して「報告」で書かれていた「●人間自身の労働の社会的性格 他人のための労働という性格と理解していいか?」については「無差別一様な労働、抽象的人間労働」と理解すべきだということになりました。
本文については特に大きな問題は出されませんでした。
【資料】
私的諸労働の社会的総労働にたいする連関は独自な形態をとる
商品生産もまた一種の社会的生産である。すなわち労働する諸個人はお互いに無関係に自給自足の生活を行うのではなく、彼らは、彼らの総労働によって生産された社会的総生産物のなかから、彼らの欲求を充たすのに必要な生産物を入手して生活する。そのためには、なによりもまず、社会の総労働は、社会の必要とするさまざまの生産物を生産するための具体的労働の形態をとらなければならず、そのようなさまざまの労働部門に配分されなければならない。つまり社会的分業(division of labor)が行われなければならない。さらに、社会的分業によつて生産されたさまざまの種類の生産物が、なんらかの仕方で労働する諸個人(およびその他の社会性成員)に分配されなければならない。
商品生産以外の社会的生産では、社会全体のさまざまの欲求の総体に対応する社会的分業のあり方も総生産物の分配のあり方も、ともに一見して明白である。すなわち、なんらかの共同体組織なり、支配者である特定の個人なり、支配階級を形成する諸個人なり、意識的に連合した自由な個人なりが、その意志にもとづいて意識的に、社会的総労働(抽象的労働)をさまざまの具体的労働に配分し、総生産物を生産手段および消費手段として同じく意識的に配分ないし分配する。ひの意志が独裁的なものである場合もあれば、民主的に形成される場合もあるであろうし、またそれが主として伝統に頼るだけの場合もあれば、多分に恣意的である場合もあり、また周到に計画されたものであることもあろうが、いずれにせよ、社会的分業のシステムや社会的分配の方法は、人間の意志によって意識的に決定されているのである。(中略)
もちろん商品生産の場合にも、なんらかの仕方で、社会の総欲求に対応する社会的分業の有機的なシステムが形成されなければならないし、なんらかの仕方で、総生産物がそれぞれの欲求に対応するように分配されなければならない。この二つのことは、社会的生産の一般的な条件であって、それがなんらかのかたちで実現されないかぎり、社会的生産は成り立ちえないことは明らかである。
ところが商品生産の場合には、社会的分業のシステムについても総生産物の分配についても、そのあり方を決定する個人や個人の集団がどこにも存在しない。労働する諸個人は、まったくの自由意志で、自分自身の判断に従って、自分自身の責任、計算において生産する。彼らの労働力の支出である労働は、各自の私事として行われる私的労働であり、直接には――労働そのものとしては――社会的性格をまったく持っていない。だから、その生産物もまた、彼らが各自で私的に取得するのであって、彼らはお互いに自分の労働の生産物が各自に属することを「私的所有」として法的に承認し合うのである。彼らの生産物は私的生産物であつて、直接にはけっして社会的生産物ではないから、社会がそれを意識的に分配することもありえない。
それでは、分業の組織や生産物の分配の方法を決める者がぜんぜんいないのにね、どのようにして、商品生産は社会的生産の一つのシステムとして成り立ちうるのであろうか?
商品生産者たちは彼らのあいだの生産関係を、直接彼ら自身のあいだの――直接に人間と人間とのあいだの――関係として取り結ぶことはないが、そのかわりに一種の回り道をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ぶのである。
私的労働が商品価値に媒介されてはじめて社会的労働になる
それでは、商品生産者たちのあいだの生産関係は、どのようにして、彼らの生産物の商品としての交換の関係をとおして取り結ばれるのであろうか、言い換えれば、彼らの生産物の商品としての交換関係は、どのようにして、商品生産者たちのあいだの生産関係を媒介するのであろうか?
商品は種々さまざまのものから成っており、使用価値としては千差万別である。だからこそそれらは交換されるのである。すなわち交換は、商品の使用価値としての相互の差異を前提する。だがそれだけではまだ交換は行われない。その上にさらに、Aの所有する物はAにとっては使用価値ではないがBにとっては有用であり、反対にまた、Bの所有する物はBにとって使用価値ではないが、Aにとっては有用である、ということを前提する。そうしてはじめて彼らは交換することになる。
けれども、こうしたことは交換が行われるための条件であるには違いないが、これらの条件だけで直ちに生産物の商品としての交換が生じるとは言えない。たとえば、もう飽きたゲームソフトをもっている太郎と要らないサッカーボールをもっている花子とがそれらの物を互いに交換したとしても、それは商品の交換ではない。なぜなら、この交換はおよそ、それの媒介によって彼らのあいだに社会的生産のシステムが成立する、という性質のものではないからである。
それでは、商品の交換を特徴づけるものはなんであろうか? それはいま述べたような、たんに人びとの所有する物の使用価値としての相互の差異、ないしはそれらの物と人間の欲求の関連ではなくて、むしろ、使用価値としての相互の差異にもかかわらず諸商品がお互いに価値として等しいとされる関係、すなわち価値関係である。商品は使用価値としては千差万別であるが、価値としては無差別一様である。だからこそ、どの商品もみな一様に金何円という形態、すなわち価格をもつのであるが、この価格において表示される価値によって、商品生産者たちの労働ははじめて統一性を獲得するのである。
商品生産者の労働は、すでに述べたように、直接には労働としては社会的な統一性をもっておらず、社会的な性格をもっていない。それは、労働する諸個人が私的な諸個人であることから出てくる必然的な結果である。彼らの労働は直接的には社会的労働ではありえない。すなわち商品生産の場合には、はじめから労働力が社会の労働力として存在し、それが種々の生産目的のために、あるいは耕作労働として、あるいは紡績労働として支出されるというふうにはことが運ばない。もしそうであれば、労働はそのアクティブな状態において、それが行われる瞬間から、直接に労働として、そしてまた、あるいは耕作労働、あるいは紡績労働といったふうな、それぞれ異なる特殊な、具体的労働として、その自然のままの姿において、立派に社会的な性格をもつであろう。ところが、商品生産者の場合はそうはいかない。
だがそのかわりに、彼らの労働は生産物に対象化されて、生産物の価値を形成するのである。価値としてはすべての労働は無差別一様であり、たんに量的な差異があるだけで質的な差異はもたない。商品生産者の労働はこういうかたちで――すなわち第1には、労働そのものの性質としてではなく労働の生産物の性質というかたちで、さらに第2には、生産物の自然的な、例えば米から米、布なら布といったふうの、それぞれ違った使用目的に役立つ使用価値としてではなく、無差別一様な価値性格というかたちで――はじ゜めてそれらのあいだの統一性を獲得し、それによってはじめて社会的な労働になるのである。換言すれば、社会がその総欲求の充足のために費やす総労働時間の一部としての、すなわち社会の総労働力の支出の一部としての意味を持つようになるのである。
だから、商品生産の場合には、生産者間の社会的関係は他の社会的生産の場合とはまったく逆の仕方で取り結ばれるのであり、すべてが転倒して現れることになる。最初にまず人間の関係が取り結ばれて、それに従って社会的生産が行われるのではなく、最初にまず、相互に独立して行われる私的な労働の生産物がお互いに価値において等しいとされ、交換される。そしてそれによって、商品生産者の労働もまた、価値を生産するかぎりではなんらの差異もないものとされ、無区別で一様な抽象的人間的労働に還元される。そしてこのような一種独特の形態においてはじめて商品生産者の労働は統一性を獲得し、社会の総労働力の支出の一部だということになるのである。
要約しよう
商品生産は、相互に自立した私的生産者としての労働する諸個人によって行われる社会的生産である。直接には私的な彼らの労働は、その生産物の交換の関係においてはじめて独自の社会的形態を獲得する。すなわち彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において、使用価値としての千差万別のすがたにもかかわらず価値として相互に等置されるのであるが、これによって彼らの労働もまた、使用価値を生産する労働としてのあらゆる現実の差異にもかかわらず、価値を形成するかぎりにおいてはそれらの差異を捨象されて、無区別一様な人間的労働、すなわち人間的労働力のたんなる支出の一定量にほかならないものとされるのである。そして、この一般的な人間的労働の結晶としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲求充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなりうるのである。
商品生産関係とは、私的生産者たちが彼らの労働生産物の商品形態をつうじてはじめて互いに取り結ぶ社会関係であって、彼らの私的労働が生産物の価値をつうじてはじめて社会的労働になるという独自な生産関係にほかならない。
商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた人間が商品所持者として相互に関わり合う関係が支配的な社会的関係であるような社会を商品生産社会と呼ぶことができるが、このような社会はじつは資本主義社会であって、資本主義社会とは異なる商品生産社会なるものは歴史的に存在しない。なぜなら、資本主義社会になってはじめて、社会をたえず再生産する労働する諸個人が彼の必要性産物ないし労働ファンドのすべてを商品市場で買わなければならない諸関係が、すなわち資本・賃労働関係が発展するのだからである。なぜ、資本主義社会では労働する諸個人が自己の必要性産物を市場で買わなければならないのか、という点については、のちに資本のところで立ち入って説明することになるが、その要点は、彼らは、彼らの労働するための諸条件を持っていないので、必要性産物を入手するためには、まずもって自分の労働力を労働市場で商品として売り、その代金である貨幣すなわち賃銀で必要性産物を買わなければならないのだ、ということである。
大谷禎之介「商品および商品生産」(「経済志林」第61巻第2号) 85−93頁
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