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2007年02月26日(月) |
わかりやすいことは書かなくてもわかる、書くべきことはわかりにくいからこそ書かねばならぬ |
発達109号に松本光太郎さんが「なぜ古野さんのコーヒーを飲む姿に僕は魅了されたのか」という小論を書いていらっしゃる。
これは松本さんが参与観察していた高齢者施設で出会った古野さん(仮)というおばあさんとのやりとりを描いたもの。古野さんという方は、すでにかなりのご高齢であるにもかかわらず、コーヒーをたしなまれる。親類の方の配慮もあって松本さんとその古野さんは一緒に散歩中に缶コーヒーを飲むことになる。で、そのコーヒーをぐーっと両手をそえて力強く飲む、その姿に松本さんがとても魅かれたのだという、まあ、言ってみればただそれだけのことをこれでもかと書いたのが、この小論である。
うーーーん、デ、ドウナノ?というつっこみは当然あろう(いや、むしろそれがまっとうな受け取り方であろう笑)。あろうが、まあ、そんなことはこの際、どうでもいいのである。というか、おそらくその「デ、ドウナノ?」とつっこむ私たちの納得の構造といったものを逆照射してくれる小論ではないかと思ってみたり・・・。
おりにふれ、松本さんの文章を読んでいると、少しばかりグッとくるものがある。以前にも、松本さんのなにげないポスター発表をみて、内容はもうすっかり忘却されてしまっているのであるが、たしかにその後、僕は祖母のことを思ってどうしているだろうなーと思ったのをおもいだす。松本さんのお師匠の南先生が、昔、澤田先生と著された「記念の作業」という小論も、僕にとってははじめて読んで感動した論文である。たぶん、自分自身の個人的な関心というか、なにかに共鳴するものが記述にあるからなのだろう。今回もそうだ。
質的研究の評価基準として、知的に頭でわかるというのではなく、わかるという前に、なにか身体が動いてしまうような、そういうわかり方があってもいいのではないかと思うわけですな。というのも「デ、ドウナノ」というつっこみに、どう答えたら僕らは納得するのだろうと考えてみる。それは古野さんがコーヒーを飲む姿が象徴しているものがこれこれだと指示し、それがどのような動作やエピソードから導かれるのかが記述され、私たちにとって了解可能なgood storyに落とし込まれた時に、われわれは「なるほど、そういう意味があるのだな」と納得するのだろう。
でも、おそらく古野さんのコーヒーを飲む姿に、松本さんがひかれたことに、そんなにはっきりした理由なんかないのだ。ただ、「そんな感じがした」としかいいようがない、なんともいえない感じこそが表現されるべきことなんだろう。誰にでも理解可能な、一般的な記述になった瞬間に、松本さんが古野さんに魅かれたその感じは失われてしまうんじゃなかろうか。思えば、クライエントとセラピストのなかでつむがれる物語なんてものもそうなんじゃないか?。北山修先生が黒木先生との対談のなかで次のようにいっている。
私たちの相手は、患者さんひとりだけなわけで、作家のように、沢山の人たちに評価され、面白いと言われるようなことをやっているわけではないんです。確かに小説家と似たようなことを我々はやっているけれども、決定的に違う部分は、そこですね。手間ひまかかるけれども、小説家のように報われることもなければ、簡単に面白い物語が得られるわけでもない。二者物語と三者物語の違いというのかなあ。ふたりだけで紡ぎ出した物語と、第三者に分かってもらうために紡ぎ出した物語とは違うんです。この二者物語というのは、臨床の場面にしかなくて、誰もがすぐに読んで喜んでもらえるものでもないね(北山・黒木, 2004)
その論文にどんな意味があるのかといわれて、簡単に言葉にできる、というか、読者に受け入れてもらえるような言葉になるのであれば、おそらく古野さんのような高齢者へのケアに対するスタンスといったものはとっくの昔に変わっただろう。
いやいや別に、すぐにケアへと結びつけなくてもいいんだけど、我々が高齢者の問題をみる目というものも自ずからかわっているだろうと思うわけである。松本さんが古野さんの缶コーヒーを飲む姿に魅かれたさまを分厚く記述して、でも、デ、ドウナノ?という感想を大方の人がもつのだとしたら、それは私たちの高齢者をみる目の貧困さをあらわしてもいるのだろうと、そんなことを思った。
もっとも、だからこそ相手に届く言葉をつくりだすのも研究者の仕事だとは思うのだけど・・・・.
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