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2007年02月08日(木) |
転移はおこるのか、それとも視点なのか |
水曜日は「転移」についての研究会@茗荷谷。学習科学サイドからは白水さん、状況論サイドからは香川さんが発表された。
転移といっても「転移/逆転移」のあれではなく、学習心理学でいう転移、簡単にいえば、ある場面で学んだことが、状況を超えて別の場面にいかされるという現象のことである。この概念は、教育場面はもちろん(そもそも「学校」は転移を前提としている)、心理療法でもとても重要になる。面接室のことは面接室のことで、外のこととは関係ないというのであれば、その意義は人々に理解されにくいだろう。
とはいえ、実のところ、面接室内でおこることよりも、それ以外の場面でクライエントがやっていることの方が、症状の変化に寄与しているというのが最近の妥当な見解だろうと思う(心理療法においても)。そこで、面接室外でのクライエントの行動を、どれだけ考慮にいれ、それにどれだけ影響を与えるように面接室内での会話をデザインするかということが議論されているのだと思う。
ただし、ある状況論の人にいわせると、例えば欧米の研究などでは、学習科学の成果は、そもそも学校文化に親和的な家庭を背景とする生徒を相手にしており、Willsなどの研究にあるような反学校文化にすむ生徒、あるいは、教室談話へのアクセスに失敗するマイノリティの問題などをどうするのかという問題はいまだ十分に解決されていないということになる。
そういったそもそも学校での勉強にリアリティも意義もみいだせない子どもに何を提供するのかということを考えなければ、学校での授業内容が、あるテストで測られた学力によって「転移したといえる」といってもむなしいのではないかということになる。
そもそも、状況論サイドから転移をとらえれば、転移というのは実際におこるとかおこらないという問い方ではなく、人々の変化をみるときの視線のありようであるし、その変化を可視化する道具(例えば、全国統一テストとか、学校間での連携など)の配置のあり方として問いをたてようということになる。つまり、その視線の妥当性自体を問い直す研究も必要なのではないか、ということだ(香川さんの研究もその流れであった)。
非行少年のSST研究でも重要になるのは、いかに少年にとってリアリティがあり、少年にとって学ぶ価値をみいだせるスキルをいかに社会規範にそわせたかたちで設定するのかということだ。つまり、非行少年は一般的に、社会的スキルが乏しいから非行をおこすととらえられることもあるが、それは、例えば人付き合いが苦手で非社交的な子どもにとってのそれとは全く違う。彼らはある意味、とても社会的である。過剰に、といってもよい。だから、ただ単に社会的スキル(大人がいいと思うようなもの)を教えてみても、彼らはまったくのってこないし、ただ単に「その場でうまくやる」ことに長けてくるだけで、いっこうに認識がふかまったようには思えないということになる。当然、社会に戻れば失敗して逆戻りしてくる。で、最低限、社会に適応的で、なおかつ彼らにとっても切実な問題をさがしあて、うまくデザインして提示することが必要になってくる。
ただし、その一方で、彼らが社会にでて再び失敗するという時、その失敗の様相というのはひとくくりにして論じることはできない。「失敗」というと簡単だが、きわめて具体的な状況のなかで、一回一回の逸脱・問題化はおこっている。こういった生々しい状況を捨象して、罪が1回、再び1回と数えれば、たしかに、立派な「再犯」なのであるが、それを同じ「罪」1回と呼ぶことが実践的に有益とは思えない。
そして、施設なり、家庭なりが唯一の「悪い影響」のインプット先であり、少年の逸脱がそのインプットの発露(転移先)と人々に信じ込ませてしまえる社会構造というのもまた、相対化していく必要があると思う。処遇の「効果」という視点を超えて、そのときそのとき、彼らが適応的にやっていくことを支援するネットワークのデザインをすることが必要だとも思う。
・・・・・・というようなことをふまえて、上記の2つのサイドの議論をきいて、自分の非行少年研究とむすびつければ、両方の視線の緊張関係をもたなければ、有効な研究になりえないし、もっと両サイドの対話をすすめるべきだということになる。まあ、当たり前だ。その意味では、今回の研究会が設定されたのはよかったのだが、もう少しかみあった議論になるとさらによかったなーと思った。
そのためには?。いろいろあるだろうが、ひとつには研究者の立場というものを明確にするということはあるのかなと思った。学習研究として、どちらの立場が上等かということを競うのではなく、相補的なものであり、緊張関係をもって協働するようになるのがよいと、僕は思う。おそらく、およそ学習科学というものは、教育者(に近い)的スタンスをもっているように思う。その視点からすれば、どう教えたら賢くなるのかと考えるのは至極当然ではある。100%でなくても、少しでもその問いに近づける努力があればよい。
状況論サイドはどうか。別に、その研究がいかに実践に寄与するかなどと生真面目に考えなくてもいいけれど、少なくとも教育研究なのであれば、やっぱり自分のスタンスが実践とどのような関係にあるのか、ということをレフレクシブに問うていくのは必要だろう。まして、状況論というのは、研究者が単なる「壁の花」的観察者であるとは考えないわけだから、よけいに。自戒をこめて。
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