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2006年10月11日(水) |
Educational researcherの最新号に |
マクダーモットが筆頭著者になる論文が掲載されてた。「学習障害」を文化的実践としての観点から分析したもの。マクダーモットはもうかれこれ30年もの間、LDが社会的に、人々の関わりのなかで構成されるという主張をおこなっている。根性である。
「学習障害」というのは大脳生理学や神経心理学によって説明されるものともいえるが、マクダーモットはこのような見方をあえてとらない。そのかわり、私たちはどういうわけで、LDを脳の障害(あるいは、社会階層の=アメリカではLDが低所得者層や移民層に多いことがわかっているらしい)問題としてうけとってしまうのかを丁寧に記述しようとする。
ERでは、最近の学校での参与観察を通じて、"at risk"とみられる3人の少年の授業でのふるまいを分析している。この少年たちは、「学習障害」が疑われる生徒であり、同時に、移民か黒人という「マイノリティ」の子どもである。彼らは、最終的には、困ったことをするやつらであり、成績も悪い。しかし、結果的にそうなる前に、彼らがなにをしていたのかを知る人は少ない。マクダーモットらはビデオを丹念に見返し、少年らが教師にみえないところでリーダーシップを発揮し、優れたアイデアをだしていることを発見する。そして、にもかかわらず、教師の目にとまる場面では、彼らの頑張りの成果は、仲間の優等生の発言によって全部「オイシイとこどり」されてしまうことも同時に発見している。現場の教師たちは、マクダーモットのこの説明を聞き、ビデオをみることによって、彼らの成績を見直したそうだ。
我が国の状況論者のなかには、マクダーモットらの分析が、実践者にはどう受け取られるのか、ケンカを売ることになってしまわないかと懸念されている人もいるようだ。僕は、自分を実践に関わるものと呼ぶにはかなり無理があることを自覚しているが、基本的にマクダーモットの視点はとても重要な視点だと思っている。従来の臨床心理学の論文は、問題の存在によって問題を説明するところがあるけれど、本当は問題について論じる際、問題の存在を前提にしてはいけないはずだから。
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