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2006年07月19日(水) 道具の使われ方を知る

県内某所で謀議に参加。いわゆる実践研究って、実践がうまくいけばそれでいいような気になってくるが、それを相手に伝えるのって大変よね、という話(もっとも「うまくいっている」というのも、検証抜きには僕たちの気の迷いである可能性を捨てきれないわけですが)。

まず、自分たちでうまくいきそうなものをつくってみる。しかし、デザインされたとおりに人はそれを使うものではない。デザイナーの意図どおり使ってくれて成果を上げる人もいれば、デザイナーの想定外の使い方をして、デザイナーが頭をかかえる場合もある。

教育実習生の「指導案・授業計画」もひとつの道具だが、某S先生が翻訳のあとがきにかいているとおり、指導している現場教師はときに「授業では指導案は忘れなさい」といい、またときには授業中の発言が「授業計画」から逸脱したものだと指摘するといったように、「道具」の実践における位置づけは非常に恣意的に決定されるということがある。

こうした現象は、上述の発言をした指導教員がいいかげんという話では決してなく、指導案という道具が、どういう道具なのかということを如実にあらわしている。すなわち、指導案とは、実際に、実践を遂行して行く上での厳密なプログラムというよりも、むしろ、(もちろん大まかな方向性は示すのだが)なにかあるたびに、自分の実践をふりかえり、他人に自分がいまなにをしているのかを説明するための道具でもある。

いずれにしても、その人の道具の使い方には、その人らしさ、その組織らしさ、その文化らしさがあらわれているわけで、本来の使い方を押し付けることでそこが見えなくなるというのはもったいない。むしろ研究者は、デザイナーの意図通り使ってくれない人が、どのようなところでつまづいているのかを探ることで、使用者のことを深く知っていく(そのことがよりよい道具をうむ)きっかけをえるのが大事ではないだろうか。

実際、上述の指導案の話にもどれば、教育者のほうでも「恣意性」を承知のうえで、あえて真剣に指導案をかかせ、とことん考えさせることによって、現実場面での失敗の原因を本人にも特定できやすくしたり、反省しやすくしたりする(そのことによって学生のよりよい学習へとつなげる)というスタンスの人もいる。こういうアイデアは生産的だと思う。




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