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2006年03月25日(土) 日常経験をデータとしてみることへの異和感

昨日にひきつづきの「異和感シンポ」の話。

ここでは日常生活で出会うことがらを「データ」としてみるということがもたらす異和感について語られた。その感覚はまっとうなものだと思うし、とても大事なことだと思う。の、だ、けれども、僕は同時にもうひとつ想いださずにいられないことがある。それは2004年の10月に、同じく九州大学の教室できいた北山先生の講演である(過去日記にそのときの記録あり)。

北山先生いわく、フロイトは実は芸術家(いまでいう三谷幸喜みたいな人のことをいうらしいのだけど)になりたいと思っていたけれどもなれなかった。そこで芸術家にすごい羨望(envy)を抱いていたのだという。でも、北山先生はこのような羨望はもつ必要がなかったのだとおっしゃる。なぜならば、臨床家と芸術家は根本的に違うから。臨床心理学者は、もし芸術家が創ればほんの少しの時間で終えてしまうようなドラマをつくるために、(あえて言うなら)退屈でおもしろくないクライエントの話を、それこそ何10時間もの時間をかけて聴こうとする。

最後に北山先生は最後に以下のように締めくくられた(2004年10月末の日記)。
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研究者もまた3者関係での苦しみを抱いている。すなわち2者関係で、クライエントと接して得たあのよろこびが、3者関係にしようとおもって論文化した瞬間にまったくおもしろくもなんともない話になってしまうことを我々はしばしば経験する。それは、なかなか伝わらない。

しかし、私たちはそれよりも3者関係にいたるまでの2者関係を味わうというところにその重点をおくこともできるし、それが我々の問題なのだ。この 2者関係ではおもしろいのだけど、3者関係にすると面白くなくなってしまうというこの感じ。そして、上手く伝えることができないというこの感じは、実は、クライエント自身が社会にいきていくうえで抱いてきたつらさでもあるのだ。
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例えば、学校にいったときに受ける「なんともいえない感じ」があるにしても、それは、なんの矛盾も葛藤もなくそこにあるわけではないだろう、と私なら思う。こうした矛盾や葛藤をそのままにして、先にすすむことはできない。だから、人々は問題に直面する。でも誰も、その矛盾や葛藤が解消できるとか、統合できるとか、そういうことは想像もつかない。だからそうしようと試みることもない。

研究者はそういう人々の絶望感にのみこまれてはいけないのだ、と思う。たしかに2者関係でうける喜びや面白みが、3者関係になることで一気に失われてしまう。そのことは痛みだ。でも、その痛みはおそらく、現場の人が、他者に伝えようとして伝わらない、わかってもらえないと感じるその痛みなのだと思う。だから、それをひきうけながら、それでも絶望感にのみこまれないように、その矛盾や葛藤にのみこまれない現実のとらえ方ができるのだということを身をもって感じることが大事なのではないだろうか。

そんなことを思った。


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