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2006年03月21日(火) トランスクリプトはデータではない

『質的データへの異和感』シンポへでてみる。大倉さん、木下さん、阪本さんの話題提供。

大倉さんはのっけから村主選手のオリンピックでの演技後のインタビューからはいる。そしてトランスクリプト(単純に会話の移行情報だけが付加された、書き起こしであるが)を提示し、これではテレビ映像をみたときの、この私のなんともいえない感情をともなった「意味」にはとどかないでしょう、とおっしゃる。そして、分析者がその場の人に内在的な分析をすすめなければならず、それこそが質的分析の目指すところだったはずだ、という。ところが、それが単にトランスクリプトを提示して、そこから解釈を加えるという、従来の客観主義的研究となにもかわらないものになってしまう場合があるという危惧を述べられた。それはまったくそのとおりだと思う。

偶然だが、僕も彼女のインタビューをライブで聞いていて(というのも、荒川選手の演技がおわった直後に目覚めてしまったので)とても印象的なインタビューだと思っていたので、偶然にも同じものを印象深く見ているというので驚いた。もっとも、印象深かったポイントというのは少し違う。僕は冒頭のインタビュアーの「・・メダルには届きませんでしたが、頑張りましたね」という切りだしがとても印象に残っている。

というのも最近のインタビュアーは、だいたい事実のみを相手に伝え、そこから彼(女)らの自由な反応を聞き出そうとしているように思える。サッカーの中田はそういうやり方が嫌らしい(自分からさらけだすのがとても嫌いなのだろう)のだが、うまい方法ではある。ところが今回インタビュアーは「届きませんでした」という事実を伝えるだけではなく、その後に「が、頑張りましたね」と続けたわけである。僕にはまさしく「続けた」ように聴こえた。そして、こういうインタビューをするにはなにかインタビュアーなりに引き出したいものがあるに違いないと感じた。だから印象深かったのである。

さて、村主選手はそれに少し戸惑ったような笑顔を少しみせ、そこから様子がおかしくなってくる。「良い演技」だとたたみかけられて、頑張ってしゃべっているのだが涙がこみあげてくる。ここでの涙を大倉さんはインタビュアーには頑張ったといわれつづけ、そこに口に出せない悔しさがでたものというように評しておられた。

もちろん、そういう見方もできるのだけれども、僕はもうすこし違う感じをもっている。というのは、冒頭の質問でも結果ではなく、努力のほうに焦点づけていることに関連するのだが、村主選手はそれまでの日本選手権でのインタビューなどみても、結果はもちろん欲しいけれども、それ以上に観客に伝わるよい演技をすることを心がけているように僕にはみえていた。

だから、「頑張った」というインタビュアーの問いかけをうけて「すごいたくさんのお客さんがいたので」とここでもお客さんんのことをだしている。ただし荒川選手が金をとったのに4位になってしまったという状況では、頑張ってよい演技ができたというだけでは認めてもらえるものではない、というのは村主選手もわかっていたのだろう。

結果がでないことに焦点づけた質問をすれば、彼女の想いもひきだせなかったに違いない。あのときインタビュアーが出した「頑張りましたね」という彼女の努力に焦点化した質問は(コーピングクエスチョンなどというと白けるが)、その意味で、村主選手が本来大事にしたいと思っていることを話題にすることを許した質問だともいえる。

このインタビュアーは(もし本当にそうだったらけっこうずるい手を使ったなーとも思うのだが)そういう村主選手のこれまでをちゃんと勉強していたのではないか、と思えた。まあ、もちろん想像である。だけど、おそらく村主選手だって、これまでに事実のみをつきつけられるインタビューはたくさんうけてきただろうし、そういう選手の様子をみてきてもいるだろうから、今回もそうだろうという予期があったというのはあながち空想ではないと思う。その彼女の予期は、のっけから崩されたわけである。

このようにして大倉さんが「かみあわないインタビュー」と評したインタビューは、僕はかみあわないのではなくて、むしろ、ここで一般的に期待されているであろう枠組み(つまり結果がでなかったことへの悔しさ)をわざとインタビュアーから逸脱することで、選手の実感に近いところにふれられるインタビューになったのではないかと思うわけである。

ところで、大倉さんの発表のなかで一番気になったことは、トランスクリプト=データとしていたところである。少なくとも会話分析的な研究の場合、トランスクリプトはデータではない。むしろ結果だ。例えば、トランスクリプトとして大倉さんがだしていたものは、ターンの切り替わりだけが表示されている単純な書き起こしであるが、もし、村主選手が目に涙をうかべるまでの過程で、インタビュアーと村主選手のあいだになにがおこっていたのかに注目するならば、もう少し違った(たとえば表情の変化をできるだけ付加するような)トランスクリプトを作成することもできるだろう。

さて、それでも実証主義的なにおいがするといわれればそれまでだけれども、なにも会話分析的研究というのは客観的な証拠として書き起こし資料を提示し、それに対して解釈を加えることを意図しているのではない、ということは強調したい。もちろん、大倉さんは、そのようなことを承知しない、安易な質的分析の使用をいましめたのだろうからここで目くじらをたててもしょうがない。そのような分析をする人がいたら、僕も同じように指摘する。

とってつけたようになって申し訳ないが、大倉さんのご研究での分析はとても見事なもので、常に自分の感じを丁寧に文章にしておられる。卒論生にもすすめることがある。トランスクリプトなど呈示されるわけではなく、それに比べれば私の会話分析的な研究はともすると客観主義的な枠組みにはまりやすいものととられることがある。これには反論したい(別に大倉さんは僕に言及しているわけではないことはわかっているが、いちおう、そのように僕の研究を受けとる人がいてはいけないので、そのためにいっておく)。

長くなったので、続きはまたこんど。


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