I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2006年01月24日(火) なぜに「近代的権力」までいってしまうのか・・

会話分析と談話分析というのは似ているのですが、実はちょっと違う。

会話分析が主眼としているのは、あくまでもある特定の文脈のなかで、その場に参与しているメンバーが、なにを志向しており、なにを参照しており、メンバー同士の相互行為の結果として、彼らがその場をどのようなものとして組織化しているのかを知ることに焦点があわせられることになります。

談話分析のなかでも、「批判的」という立場の人々や、フーコー流のディスクール分析の人々は、このような会話分析の立場には批判的です。つまり、ある文脈においてメンバーが志向しているものを問おうという立場に徹すれば、その文脈を方向付けている歴史的な条件や、権力的な非対称性、男女差別といった問題を扱うことができないというわけです。

この主張はもっともなところもありますが、批判的な立場の人々の分析をみると、すでにそこに男女差があるとか、権力関係があるといったことが前提にされていて、それの暴力性/虚構性が暴かれるといった展開になることが多いように思います。

これはいきすぎると、分析者が見いだしたいものを、会話のなかになぞるだけということになってしまう危険性があるのではないか、というのが会話分析サイドからの反論としてあるようです。そのほかに、このような暴力性、虚構性を暴くというのは、すでにそこに権力関係があるという前提をおいた瞬間に導かれる結果なわけで、それをわざわざ丁寧に言語の分析をして跡づけたとしても「だから何なの?」ということになるのではないかという批判も考えられます。

ここでマイケルホワイトたちのナラティブプラクティスに話をうつすと、『ナラティブセラピーと魅惑的な人生』(金剛出版から近刊)では、ホワイトはある特定の悩みを感じる人々のことを、「近代的な権力」の構造というところまで抽象し、相対化しようとしています。つまり、ある人が自分らしくあれないと思って悩むことや、ちゃんとした人であろうとするあまりに、かえってその呪縛にとらわれてしまううのは、全て「近代的な権力」の構造によって、そう仕向けられていることなのだということにしてしまうわけです。

同じく、うまくいかない人というのを扱っている場合でも、例えばエスノメソドロジーの立場からはまったく違った分析が可能になります。例えば、マクダーモットのLD児の分析のように、その場のメンバーのなかでいかに「できない子」がみいだされ、それが他ならぬ「神経心理学的な問題」のゆえなのだと理解されるようになるかという分析です。この場合、その場に権力構造や、近代主義的な「能力観」があると言うことは可能でしょうが、マクダーモットはそうではなく、あくまでもその文脈のなかで人々が何を志向しており、参照しているのかということにこだわっているように思えます。

どちらの立場がよいのかということは、一概にこたえられるものではない。それは問題によるということなのでしょうが、おそらくホワイトは権力構造などもちださなくても、外在化や、ユニークな結果の発見といったテクニックを用いて、悩みをかかえる人をよりましな方向へとむけることはできただろうと考えると、(セラピストのバーンアウトについての研究や、DSMに導かれた「薄っぺらい記述」についての分析などはさておくとして)別に、近代的な権力にこだわらなくてもいいんじゃないかとは思えてきます。


INDEXpastwill
hideaki

My追加